書籍・雑誌

2013/06/12

西荻のピンクのぞうさん

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ピンクのぞうさんを見ると
初めてこの地に降り立った日のことをはっきりと思い出す。

改札を出て、南口へ。
小さな普通のお店が建ち並ぶアーケードに大きなピンクのぞうさんが吊るされていて、
そうしてそれが誰も特別気にしていない日常になっているという不思議な光景。
ぞうさんのアーケードを見た瞬間にとんでもない居心地の良さみたいなものがあって、「ここに住みたい」と直感的に思った。
ただ「アンティークが多いらしい」ということにひかれて来てみただけで
初めての場所だというのに。

ちなみにぞうさんは定期的にお色直しがなされるので、
私が初めて出会った時と今とは顔が違う。

一寸前に片付けをしていたら、ちょうどその頃友人がくれた手紙がでてきた。
あの頃は仕事も生活も何もかも今とは違っていた。
でも当時の私はその先こんなにも色々なことが起こり出会い変わっていく様を想像していただろうか?
そもそもいまよりもずっと直感で生きてぱっぱと行動していてあまり先のことを考えようともしていなかったかもしれない。

大好きな漫画「西荻夫婦」にでてくる言葉がふっと浮かんだ。

今までの30年間と
この先の30年は違う。
わたしたちは0歳の時、
この先の30年をおびえたりはしなかったでしょ

そういえば、どんぐり舎で「西荻カメラ」を読んだ時はまだ西荻のことを全然知らなくて
善福寺公園のサーカス劇場跡にいつか行ってみたいと思っていたんだった。

西荻夫婦



西荻カメラ

この記事もよいです。制作秘話とか。

「やまだ・ないとスペシャルインタビュー 北尾堂と二人三脚、演歌の心でお届けする『西荻カメラ』(2/5)」 スペシャルインタビュー

そういえばもうすぐ猫たちのお誕生日だ。

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2012/08/29

太宰治文学サロンと百日紅

昨日は構想練ったりの様々な考えごとをする為にぷらぷら。
行ったことのない道を知らぬままたくさん歩いて、たまたまあったカフェで珈琲を飲む。そういうスイッチをいれるだけでいつもとは全然違った発想が生まれたりもする。

その後、太宰が通った伊勢元酒店の跡地にある「太宰治文学サロン」へ。

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こぢんまりとした館内には、写真やパネル、直筆原稿の複製などが展示されている。
太宰の筆跡を眺めつつ、この文字のはらい方は自分と近いなぁとか考えたり。
以前世田谷文学館で森茉莉の直筆原稿を見た時もそうだったのだけれど、昔たしかにその小説の一節がこういう形で刻まれたのだという証拠、のようなものを目の当たりにするのって、本当に言葉にできない感動がある。
それまでは活字でしか見ていないわけで、でも実際に作家が生み出したものは活字のそれではなく直筆のこの形のものなのだよな、という。
絵画とかだとつくられた形のまま見られるから常にそこに込められたエネルギーを感じることができるけれども、文学だとなかなかそうはいかないものね。

サロンでは太宰グッズも売っているので、小説の一節が箔押しで刻印された鉛筆と、ハンカチを購入。鉛筆に刻まれた一節は数種類あるのだけれど、私が選んだのはこれ。

恋、と書いたら、あと、書けなくなつた

『斜陽』の一節。
斜陽好き。
ほんとははじめのスウプでヒラリのあたりが一番いいのだけれど。

あと、人へのお土産で選んだのはこれ。

大人とは、裏切られた青年の姿である。

『津軽』の一節。
前後はこう書かれている。

大人といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙つて歩いてゐた。突然、T君のはうから言ひ出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢ひませう。」
「病院のはうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた。

−『津軽』 太宰治−

刻まれた一節だけでもそれはそれで様々なことを考えさせる素敵な言葉であるけれども
前後を読むと、主人公が大人とはを考えどこか達観しつつもまだ少年の部分を持っているという一寸ほほえましい描写であったりもする。
この状況含めて、よりいい言葉なんじゃないかな、と思う。

サロンの後は、太宰ゆかりの場所を辿った。
でもどこもゆかりの案内板があるだけで、建物は姿を変えてしまっている。
熱心なファンの人は「今は葬儀社だけれどもここは山崎富栄の下宿先だ」とか想像力でカバーするのかな。
形はなくとも、以前このあたりを通ってここにいたんだなぁというのは何となく感慨深い。

ゆかりの場所のひとつ、市の文化施設「みたか井心亭」には、太宰治旧宅にあった百日紅が移植されている。
小説『おさん』にも登場する百日紅。

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朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、
「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」
と呟きました。
玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。
「そうなんでしょうね。」
私もぼんやり答えました。
それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。

−『おさん』 太宰治−

その名の通り、真夏から秋にかけての約100日間ピンク色の花を咲かせる百日紅。
見事に満開だった。

夏休みであるのでどこか遠くに旅行する事も出来たのだけれど、なんだか全然そういう旅を欲していなかった最近。
つくろうと思っているものであったり、整理したいものであったりがたくさん転がっているからというのもあるかもしれない。
旅のタイミングって人それぞれで、長い休みの度に絶対に旅行へ行くという人もたくさんいると思うのだけれど、私は何となく呼ばれた時にだけ旅に行っている気がする。要するに気が向いた時、なんか今ここに行くべきな気がするという直感に突き動かされた時。
でも、最近はその分近場でもの凄いリフレッシュになるような出掛け方は度々している気がするので、旅と呼ぶような日数を割かないといけない遠方に呼ばれていないだけで、近場からはちょいちょい呼ばれているのかもしれない。
この突然思いついた太宰ゆかりの地めぐりもそうだったりして。

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2012/01/29

二人の場合 / 青山七恵

文藝2012年春号に載っていた青山七恵さんの「二人の場合」を読んだので、メモ。

肌着メーカー会社の同期、実加と未紀。
営業の成績をなかなかあげられない似た者同士の二人は仲良くなりいつも一緒に過ごすこととなる。
長く付き合った彼にふられてすっかりいじけた考え方になった実加、一方退職のタイミングで彼氏にプロポーズはされたけれどしっくりこないうえに実加が心配だった未紀は結局婚約破棄をしてしまう。
二人の関係はやがて、実加が結婚して子供を生んだり、未紀がクラリネット奏者というやりたいことを頑張っていくうちに噛み合なくなっていってしまう…という話。

既婚で子持ちの実加は自由に生きる未紀のことを煩わしい事から逃れ逃れ生きているように思い、だんだん共通の話題を失っていく。
一方未紀は、家庭も仕事もある実加の中に独り者の自分よりもずっと孤独を感じてしまう。型にはまったものたちを手に入れたことで満足してしまっている彼女から段々遠ざかるようになってしまう。
一時親しかったはずの二人。
二人はそれぞれ相手が自分とは違った生活の中で大切なものを無くしてしまったのだな、と理解する。そして二人の友情は途絶える。

全体的にとてもリアルな話だった。
独身の頃同じものを評価したり批判したりしながら長い時間を共にした二人が、環境の変化とともにすれ違っていく様とか。
既婚・結婚というわかりやすい環境の変化だけでなく、一時親しかったはずの友人同士がすれ違っていくことって実際ある。
何か大事な部分における考え方が違うなって思った時や、こちらを傷つけるようなことを無神経にされてしまった時など。
どんなにそれまで親しかった相手でも、距離をおいてしまうことはある。
私は結構そうなってしまうともうそのまま苦手意識が刷り込まれてしまって、敢えて会いたくないなって思ってしまったりするのだけれど。
人付き合いの中には、どんなに親しくなってもある種の相手への「敬意」が必須な気がする。踏み込んではいけないところには踏み込まないとか、ある一定の礼儀は保つとか、そういうもの。
多分、ある程度環境が違ってすれ違う部分があっても、その敬意がお互いにある限りは続くものなんじゃないだろうか。友人関係って。

そういえば知り合いが婚活をはじめてから「独身でつるむと独身であることに安心しちゃうから、集まりもなるべく既婚とか子持ちの友達として自分を追い込んでいる。結婚する」とか言っているのを聞いて驚いたことがある。
この人にとって友達ってカテゴライズしか出来なかったり、自分の目的の為に選択する程度の存在なんだな、なんか寂しい考え方と感じた。
逆に、そういう風に判断出来ちゃうレベルの薄い相手としか付き合っていないのかもだけど…。
私は既婚だから独身だからというカテゴリーで友人を判断したりはしない。
既婚だろうが独身だろうが、魅力的な人とはやっぱり会いたい、友人でいたい。
子供が出来てしまうと物理的に会う時間の確保が難しくなったりすることによる疎遠はどうしてもあるけれど、時間が出来た時には再び会いたい。

青山さんの小説は、いつも派手さはないものの、心理描写とかがいつも丁寧で読みやすい。
私は立場でいったら未紀に近いから、何となくそちらに肩入れして読んでしまった。
人生には一時濃く関わって、その後一生会わなくなってしまう人というのがなんと多いことだろう。

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2012/01/21

第113回文學界新人賞受賞作

先日、やっと第113回文學界新人賞受賞作の「髪魚/鈴木善徳」と「きんのじ/馳平啓樹」を読んだのでメモ。

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「髪魚」鈴木善徳

氾濫後の川で人魚を拾った男性。
人魚というと、若くて美しい女性の…と思いがちだけれど、彼が拾ったのは高齢男性の人魚。
言葉の通じない人魚をベランダのビニールプールで飼い始めるが…という話。
かわいくない魚系の生き物というと、なんとなくシーマン(懐かしい)を思い出した。
この作品の中では人魚は幻の生き物ではなく、同僚に飼ったことがある人がいたり、赤羽に人魚屋があるというのが面白いなと思った。
でも現代では人魚を飼う人自体が減ってしまっているようだ。
人魚の餌やら水槽やらが高額なせいもあるのかもしれない。
この人魚は、飼い主である主人公に夢のような不思議な幻影をみせる。
人間よりもずっとずっと長生きの人魚が見てきた光景など、映し出されたものたちに主人公は色々と考えさせられてしまう。
愚かな人間と純粋な人魚との対比、とかはありきたりな感じがして何だかなって思ったけれど、単純に変な生き物を飼う話として面白かった。
老人の人魚というのも、描写がしっかりしているからかとてもリアルだった。

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「きんのじ」馳平啓樹

経営が悪化していく自動車部品組み立て工場で働く主人公の話。
その対比として、解散寸前だった人気のないアイドルグループが売れ出していくエピソードがあったり丁寧につくられた話であった。
でも全体的に地味な話で、最後に一寸飛べるとかでもないので、あんまり好みではなかった。

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選評で吉田修一さんが候補作はどれも「不安をテーマにした作品」と言っていた。

不安な世の中で生まれる、不安な話たち。
不安は嫌だね、内臓をひゅっと掴まれると思いながらも、生きていく限りぽこぽこと生まれたりたち消えたりを繰り返していくのだろうな。
未来をみることが出来ない、でも日々何かを考えずにはいられない生物の宿命的な。
不安を退治するためには案外何かひとつを手放すだけでもよいのかもしれないとも思う。
先入観だったり、いらぬ拘りだったり。
自分の人生の枠を思い込みで決めてしまうから苦しくなるのだし、だからといって何もない荒野にぽつんとかでもそれはそれで心の中に大風が吹いてしまうし塩梅が難しい。
何ごともバランスだな。
たまにふっとバランス崩して不安に捕まって、でも体勢を立て直して不安を引きはがして前へ進む。
不安の全くない人生、それはそれで惚けてしまいそうだからある程度は覚悟して受け入れる。
光を実感する為の、ほんの少しの影。

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2011/04/02

リトル・バイ・リトル / 島本 理生

リトル・バイ・リトル

リトル・バイ・リトル
島本 理生

第二十五回野間文芸新人賞受賞作

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母と異父妹ユウちゃんと3人で暮らす浪人生のふみ。
ある時母が勤めるマッサージ店でキックボクシングをやっている周と出会う。
自己中心的な母親とかわいい妹、2番目の父。
家族間での問題も抱えながら、少しずつ前へ進んでいくふみの話。

島本理生さんのことは勿論知っていたけれど、何となく読みそびれていたので今作が初。
高校在学中に書かれたこの作品は、人物の様子などがとても瑞々しく、同年齢の頃の自分の気持ちが甦ってきた。
そういえば私が小説をたくさん読み出したのは20歳頃だった。
あの頃は、自分が文芸誌とかも読む程の本好きになるとは思っていなかったな。

島本さんの文章は読みやすく、情景の描写も丁寧なので、小説を読むって楽しいよねという純粋な気持ちを思い出す。
読後さらさらと流れていく文章の心地よさの余韻が残った。

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2011/03/27

家族生活 / やまだないと

家族生活

家族生活
やまだないと

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文藝別冊のやまだないと特集に掲載されている作品なので持ってはいたのだけれど、ないとさんの作品の中でも特に好きなので単行本も買ってしまった。

ゲイのカップルである父親二人に育てられた12歳の少女ヒナの話。

どこにも定住せずに旅を続ける3人。
ヒナのルーツに関する謎や衝撃的な事件を経て、やがて3人はスペインのサグラダ・ファミリアへと行き着く。
聖家族贖罪教会。
3人にとってとても皮肉な名前のその場所に、ヒナは惹き付けられる。

スペインで出会った女性建築家の言葉に、ヒナはいつしか自分たち家族の形を重ねる。

しばりつけるの・・・
どこにも行けないように

・・・

この話は未完である。
だから巻末には、4人の監督による4つの結末が収録されている。

でも私は、この話は未完でありながらも完成されていると思う。
結局どうなってしまったのか。
その最期を見せきらないことこそが、未だ完成しないサグラダ・ファミリアの姿に重なるからだ。

完成されていないものにはその枠組みがなく、その中身はどこまでも広がっていける可能性を秘めていて、それは時には完成されているものよりもずっと美しい姿へと変貌を遂げることができる。

・・・

ヒナが父親と一緒に祖父のもとを訪ねる場面がある。
不仲であるように見える父親と祖父。
けれど、湖に落ちて死にかけたヒナを助けた祖父は、ヒナにこう言う。

「おまえが死んだら あいつが悲しむ」

私はこの場面がすごく好きだ。

そして。
自分が落ち込んでいる時にはこのセリフがこだまする。

おまえが死んだら あいつが悲しむ

私は自分で自分を殺したりはしないけれど。
でも自分が生きているということは、等しく誰かを悲しませずにすんでいるということなのだという事実の輪郭をそこに見てはっとする。

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2011/01/17

森に眠る魚 / 角田 光代

森に眠る魚

森に眠る魚
角田 光代

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文教地区に暮らす5人の子持ちの主婦たちの話。
読んでいる途中で気付いた。
この作品は、1999年11月に東京都文京区で起きた「文京区幼女殺人事件」をたたきにしていることを。

私は主婦でもないし、子持ちでもない。
でも女同士の繋がりにおけるこの種の諍いや葛藤は様々な場で見てきた。自分の身に起きたことだけでなく、周囲に起きたことなども含めて。

角田さんの描写はいちいち本当にリアルだ。
5人それぞれ全くタイプが違うし、特別悪人がいるわけでもなく、いるいるこういう人、という感じで丁寧に描かれている。

被害妄想。
嫉妬。
ストーカー。
悪意。
憎悪。
殺意。

はじめは親しく付き合っていたはずの5人が、それぞれの綻びから関係を破綻させていく。
そのリアルさと重さで読み止めることができず、一日で読み切ってしまった。

子持ちの主婦に限らず、人間関係においてこういうことってあるんじゃないだろうか。
人づてに聞いたことで相手のことを悪く解釈したり、悪く思われているんじゃないかという被害妄想に悩んだり、色々。

この作品は5人の登場人物それぞれの視点でストーリーが進行していくのだけれど、終盤、誰の視点が分からないかたちで描かれている話がある。
それは「文京区幼女殺人事件」の犯人の独白のようであり、この作品中の誰かのことであるような、不思議な仕立てである。

どんなに辛くても憎くてもさ。
幼い命を手にかけてはいけないよ。
周囲の価値感に引きずられて手に入れたミーハーな何か、それってそんなに大切ですか?

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2011/01/10

ロック母 / 角田 光代

ロック母

ロック母
角田 光代

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25歳時の芥川賞候補作「ゆうべの神様」から川端賞受賞作「ロック母」まで、15年に渡る7つの短編がおさめられている。

・ゆうべの神様
夫婦仲の悪い両親のもとで暮らすマリコの話。閉塞的な村で周囲の住民に家庭のことを干渉され、苛立をつのらせていく。どこまでも続く夫婦の醜いいさかいであったりとか、底意地の悪い村人たちの態度なんかを見ていると不快な思いが蓄積されていくのであまり好きな話ではないのだけれど、25歳の頃の角田さんの尖り方が見えるのは面白い。

・緑の鼠の糞
タイのチュンポーンという町で目的無く過ごす主人公と、お寺で知り合った日本人男性コウちゃんの話。読んでいて「真昼の花」を思い出した。角田さんはほんとアジアでぼんやり過ごす人を書くのがうまいよなぁと思う。でもそこからきっと抜け出せないであろう様子が怖いような気もする。

・爆竹夜
上海で人々に粗雑な扱いを受け、飲食店ではぼられ、疲弊しきっていた主人公が、仕返しのためのある思いつきを実行しようとする話。慣れない異国の地で過剰なものにもまれ窒息しそうになった人が、日本であれば絶対に思いつかないであろうことをやろうとするという一種の病み方が怖い。

・カノジョ
不倫の末、前妻と別れた彼と一緒に住むことになった主人公。前妻の色が濃く残るその家で、自分と同じように彼と向き合っていたであろう前妻に近しさを感じる一方で、起こり続ける奇怪な出来事のせいで存在に飲み込まれそうになる話。見たことのない何者かの存在によってぐらぐらと静かに揺さぶられていく様がリアル。多分その存在を膨れさせ恐怖の対象にしているのは自分自身。

・ロック母
シングルマザーになることを決意して、身重のまま島に帰ってきた主人公。彼女を待っていたのは、彼女が置いて行ったニルヴァーナを大音量でかけて人形の服を縫う母親だったという話。爆音でつくった要塞の中で母親が何を考えているのか娘にはわからない。一般的には至福感を味わうのであろう妊娠中なのに、誰にも望まれない子供を宿して惨めな気分になる主人公の様子ではじめは悲しい気持ちで読んでいたけれど、読み進むにつれてどこか救いが生まれる。

・父のボール
自己中心的な父親を恨む主人公が、余命いくばくもない父親の病室で死の瞬間を待つ話。
積もり積もった憎しみが死と対面することで変化する様の描き方がうまい。

・イリの結婚式
新疆ウイグル自治区の取材に同行したウイグル族の若い女性アミナさんは、運転手の漢族の青年孫くんに対して冷たい。民族意識の強い彼女は他の民族を認めていないからだ。民族間の対立を見ながら主人公は自分と元婚約者との関係の破綻について考えを巡らせるという話。民族が違うわけでもないのにどうしてわかりあえなかったのか。恋人間、夫婦間、家族間。日本における様々なぶつかり合いについて考えさせられ、そして今まで読んで来た他6編でのいざこざとオーバーラップする。

それぞれの執筆時期が離れた作品たちであるので、手触りは大きく違う。
けれど芯に通る角田さんの色は同じで、それぞれの主人公たちは冷えた黒い何かを抱えて生きている。
後半、「ロック母」「父のボール」「イリの結婚式」は、終わらせ方が本当に素晴らしい。
わかりやすいオチの付け方では決してなく、けれどうまくふっと昇華させて読み手の気持ちも軽くなる。
15年という時間の間に、変わることなく描きたい芯は存在し続け、その一方でその芯を彩る技術はこうも変わっていくのかというところが面白かった。

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2010/06/24

春琴抄 / 谷崎 潤一郎

春琴抄

春琴抄
谷崎 潤一郎

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美しく高雅な盲目の三味線奏者春琴と、彼女に献身的に仕える佐助の話。

句読点や改行が極力減らされた独特の文体によって紡がれるこの物語は、全編に渡って美しい響きが漂っている。
文章は、音とリズム、と。私はいつも思っているのだけれど。
本当にこの作品の文章は心地が良いのだ。

以下内容にふれます。

目の見えぬ春琴にとっての道楽は、小鳥。
弟子たちには怒罵も打擲も容赦ない苛辣な春琴だったけれど、天鼓という鶯の声にはうっとりと静かに聞き惚れていて、そのギャップが素敵。

そんな春琴は、ある時何者かによって顔に大火傷を負わされ、美しい顔を失ってしまう。
気高い春琴の、醜く変わってしまった顔を見られたくないという思いを汲んだ佐助は、なんと自ら針で目を尽き、盲目になってしまう。
もう、この場面の為にこの物語は存在していたんじゃないかというくらい鳥肌のたつような描写だった。
自分の愛する人の美しい時の姿だけを永遠に脳裏に刻んで生き続ける為の迷いのない自傷行為。
究極の献身であり、一種のマゾヒズム。
この場面の存在が、「究極の耽美小説」と言われる所以なのだろう。

美しい琴の音、鶯や雲雀の冴え渡った啼き声。
それらの音に静かに包まれたこの物語は、最終的には完全に視覚を排除した世界へと行き着き、そこに至るまでの流れが兎に角見事である。
緩やかなせせらぎがあり、一時激しく氾濫し、またもとの流れになり、やがて細くなっていったその流れは大地に吸い込まれて消えてしまう、というような。

その、視覚を失った世界で佐助が悟ったこと。
それが以前ダイアログ・イン・ザ・ダークへ行った時に考えたこととオーバーラップした。

私たちは視覚に頼るあまりに、ぽろぽろと零してしまっているものがあるはずで。
相手のことを理解して、そうして本当に心の底から愛している瞬間には。逆に視覚は手放している感覚、手放すべき感覚、であるような気がする。

春琴抄の詳細はこちら

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2010/05/23

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践 / 保苅 実

ラディカル・オーラル・ヒストリー

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

保苅 実

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先日の記事でも書いたけれど、虹蛇の夢を見てから興味を持っていた本。

著者保苅さんは歴史学者で、オーストラリア先住民族などに関して研究されていた方。
2004年に32歳という若さで逝去されている。

この本は、オーストラリアの先住民族アボリジニの歴史にオーラル・ヒストリーの手法で接近することをテーマにしたもので、保苅さんはアボリジニ諸社会の言語グループのひとつグリンジのカントリーに位置するダグラグ村に滞在している。
そこにいる人々、主にジミー・マンガヤリという老人から聞いた「歴史」に関して綴られている。

アボリジニの人々は、時間が空間に従属するという時空概念を持っている。
ジミーじいさんをはじめとするアボリジニの彼らは、「正しい道」について著者に語る。
ジュンダガルという大蛇のドリーミング(祖先神)による西から東への道跡、それが「正しい道」
彼らはその西から東への正しい道上に位置しているし、常に正しい道を進まなければならないと思っている。

彼らにとって悪い者たちは、正しい道を進んでいない。
だから、彼らの大地を侵略した白人たちは北から来たとされている。
北から来て、正しい道を切断した。彼らは法を犯したのだ、と。
そして、白人たちの国「イングランド」は、南にあるのだと。

多くの日本人は、それを聞いて「おかしい」と思うのではないだろうか。
イングランドはオーストラリアの南になんてない、と。
「イングランドの位置」と言われて私たちが思い浮かべるのは「世界地図」であるが、アボリジニの人々がいう「位置」はそういう物理的な位置のことではないのである。
彼ら、アボリジニの人々にとって、空間や地形と論理的態度は同一の次元に位置づけられているのである。
そう言われても「?」という人は、今までの知識や考え方に則って判断することをやめて、今までものを見ていた位置の斜め上くらいから考えてみるといいのかもしれない。

この本では「歴史観」についても綴られていて、それについても考えさせられる。
私たちが教科書で習ってきた歴史。そこに書かれている歴史は、あくまで西欧の視点で歴史学者たちによって残されたもの。
でも様々な立場の人間がいる中で、全世界共通の歴史を記録することは無理だと私は思う。
人が綴った歴史は誰かしらの視点で濾されてから記録されたものであるし、そもそも記憶は変質するものであるから時には誤解や勘違いもあるであろう。そこで起こったことを完璧に記録するレコーダーでもない限り、これが正しいという一種類の歴史なんて存在しないのである。
それに、その時そこで何が起こっていたかということよりも、その出来事が関わった人々やその子孫に一体どういう影響を与えたのか、ということの方がよっぽど大切なのではないかと思う。

ジミーじいさんから教えられたこと、そして著者が考えていたことなど、この本にはたくさんの素敵なことが書かれている。

何かを本当に知ろうと思ったら、じっと留まって感覚を研ぎ澄まして世界に注意を向けることが重要であるという。
常にテレビだの音楽だのネットだの、何かを聞いたり読んだりしている私たちは、このじっと留まって世界の声を聞こうとする行為ってなかなかやらないのではないだろうか。
身体は世界を知るうえで決定的に重要な媒体」という言葉が素晴らしい。
私たちの身体は、常にその知ろうとしている世界の内側にある。
つまり、知ろうとしているその世界の一部、なのである。
その身体をおろそかにして、知ることなどできないのである。

全ては大地からくる」という考え。
異なる果物も、異なる土地も。全ては同じ大地の上にある。土のないところには何も育たない。
そんな生ける大地、大地の法に従うことが正しいとされている。

この「大地に従う」という考え方を読んで、私は「ガイア仮説(ガイア理論)」を思い出した。
これは、化学者ジェームズ・ラブロックによって1960年代に提唱された仮説で、私がこれを知って読んだのはもう10年程前。
地球をひとつの生命体(有機体)とする説で、平たく言えば地球上で起こっていることは全て地球の自己調節能力(ホメオスタシス)に基づくというもの。
この理論でいくと、例えば地球上で起こっている異常気象や災害などは、地球にとって癌となってしまった人間を減らそうと地球の自己調節能力が働いていると考えられなくもない。

で、ガイア仮説について語り出すと長くなってしまうのでそれはまた別の機会にして。
このガイア仮説による「地球を生命体」とする考え方と、アボリジニの人々による「大地の法」は共通するのではないか、と思う。
大地の声を聞いて、大地に従うこと=地球の意志 であり、それは我々が地球上で生きている限り絶対的に正しいことなのではないかと。
私たちが日々生きる為に口にいれているものたちは、この大地、地球によって育まれたものたちであるのだし、何より私たちだって地球の一部に生息する生き物に過ぎないのだから。

ここで取り上げたものはほんの一部で、私はこの本を読んで本当にたくさんのことを考えさせられた。
そもそも、たった一読では理解できているとは言えないくらい内容が濃いので、これから先何度でも読み返したいと思う本。
アボリジニの人々の生き方には私たちが忘れていた物事の本質が眠っているので読んでいるだけで沢山のことに気付かされるし、従来の歴史学というものを根底から覆すような問いかけにははっとさせられる。何より保苅さんの彼らに対する愛情と信頼が全編に行き渡っていてとても心地よい。
これが英文による博士論文を書き上げた後、病によるあと二ヶ月との余命宣告を受けてからつくられた本であるということに、私は驚きを隠せない。
それと同時に、これだけ優れた方がたった32歳という若さでこの世を去ってしまったことが残念でならない。

保苅さんの公式サイト「Being Connected with HOKARI MINORU」には、ニュースの他学生時代に書かれたコラムや新聞での連載など読み応えのある様々なコンテンツがある。
今は北海道で写真展を開催中だそうで、是非東京でも開催して欲しいなと思う。

自分がみた奇妙な夢がきっかけで知った本。
ジミーじいさんの言い方でいうならば、「大地がお前を呼んだんだよ」ということなのかな。
アボリジニの人々は、私たちの言葉で言えばいわゆるスピリチュアル的な考え方をする人たちである。
車が動かなければ、それは大地が動くなと言っているからであると考える。
洪水が起これば、それは虹蛇に頼んで起こしてもらったのだと答える。
そういう考え方に、抵抗がある人はいるのかもしれない。
でも、本来私たちは様々なものに自然と導かれて生きているのではないだろうか。
利便性を追求するあまりに目が曇ってしまい、大地の声を聞けなくなってしまった私たちが忘れてしまった、道。そこを辿るということ。
そして、「歴史」がただ教科書の中に変わらず存在し続ける過去の遺物ではないということ。

自分が持っている意識とか知識とか。
そういうものの形が根底から変わってしまうような貴重な本との出会いってとても少ないのだけれど、この本はそのひとつ。
あとは、サックス博士の本とかね。

私は、思う。
この本に出会うために夢に導かれたのだと。
そう思いたいくらい、心を揺さぶる非常に面白い本だった。

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践、本の詳細はこちら

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