心と体

2013/12/30

新しい道

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強引なくらいぐるりと世界が変わるタイミング、それはくるべくしてきているのかもしれない。
変化は何かを知らせるもの。
それに感謝すると必ずいい方向に歩みを進められる気がする。

最近自分で一寸ずつ気付いて取り入れていたものと、それとが繋がったことも不思議なようでいて、必然なんだろうな。
自分にとって必要な変化の道は、方向転換した後もするりと進んでいける。
もうずっとこの道を歩いて来ましたけれど?みたいな顔で。

そして、道を進んで行く自分の隣にずっと寄り添って支えてくれる人がいることは本当に幸せだと思う。

前を向く。
振り返らない。
いい変化だけを携えて進む。
前へ前へ。

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2013/11/11

浮力

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※一寸前にtwitterでもアップした、モデル不在で描いた妄想のキジトラさん。


自分の行動範囲を思い込んでいる裏では、大して価値のないものを守っていたりする。

世界の広さ。
繰り返しの磨耗の後に忘れてしまうのは何故だろう。

安寧に甘えてしまわないように。
いつでも思考をばらせるように。

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2013/11/08

動き出す列車

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朝みた夢。

駅のホームでどこか遠くに行く列車に乗り込もうとしている私と、見送りに来ていた母。
母の姿は今より一寸若い頃。

席は何号車だっけ?乗る場所はここでいいんだっけ?
私が切符を見返して確認した瞬間、扉が閉まって列車がすぐに走り出してしまう。
慌てて母の方を振り返ると、母は笑顔で大きく手を振っていてくれていた。
まだ全然時間に余裕があると思っていた私は、母と最後ちゃんと話せなかったことが寂しくショックな気持ちのまま目を覚ました。

一日、その夢のことがひっかかっていた。
夢占いをみたけれどすっきりしない。
夢をきっかけに母が今まで私に与えてくれた愛情の断片を反芻して飲み込んでいたら泣き出してしまいそうだった。

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2013/06/27

月光の冴えた晩の話

ある人が自殺をしたというニュースを
こんな理由で死ぬなんてと馬鹿にする人がいて。
でも自分を構成する、感情とか粒子とかが化学変化のように完全なる陰にぱっとふれる可能性ってあるんじゃないのかな。誰にでも。きっかけなんて些細でも。

少し、昔の話。
とてもとても悲しくて落ち込んで疲れ切ってしまっていたある時。
窓の向こうに黒々とした深くて強い闇がぱっくりと口をあけていることに唐突に気付いて、はっと我に返った。
私が正気に戻るのと同時に、闇は消えた。
消えた後の方がその存在感は色濃くて、ぞっとした。

江戸川乱歩の小説で。
月光の冴えた晩に、向かい合わせのビルの目の前の部屋から住人そっくりの人形を落とすと、住人もつられて落ちて死んでしまうという話があって。
その吸い込まれるような落下のイメージと一寸かぶる。

この世の一枚裏にはそういう闇が広がっている気がする。
それは何かの拍子にくるりと捲れる。
でもだからといってふっとむこうへ行ってしまうのは絶対に駄目なんだけれど。

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重たい話だったので、とりあえずキジトラさんの「あ」のような欠伸がもやもやを蹴散らします。んあー。

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2013/04/22

視界、色、反射。

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最近目にとまった言葉。

「人の人生に首を突っ込むな」

人はそれぞれ自分に合った課題がきていて
それぞれのタイミングで乗り越えるものなのだから
横からああだこうだと言うものではない、という意味の言葉。

私も、自分が相談しているわけでもないのに
外側から勝手にやいのやいの言われるの、すごく嫌だものな。
当事者でもない人がただ批判をするというのは、すごく簡単なことだ。

物事は、一括りには語れない。
一見似たような状況に見える人がいても
「似たような」で括ってしまうのは、括る側がその部分に於ける多様性を知らないからで。
それはたとえば言葉でいえば全て「美味しい」だけになってしまうのは
美味しさの種類も語彙力も足りないからということに通ずる気がする。

若い時は良くも悪くも潔癖だったように思う。
それは強さでもあるけれど、柔軟性とは対極になる。
昔の私はきっと今程色々な立場の人を理解して受け入れるということができなかっただろう。
所属する世界が小さかったから視野が狭かったのだ。

傷。
単純に痛い思いというのではなく経験による擦り傷という意味における傷、は、
人の視界をパイのようにぶわぶわぶわぶわと厚くする。
層を重ねたその視界からは
潔癖の時分にはただ単純な色しか見えなかった物体が
複雑な色を反射して全く違ったものに見える。

成長とは見える色が広がるということなのかもしれない。
鈍色の中の虹色。

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2013/02/21

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先日、ふと翼の絵が描きたくなって衝動的に描いた。
飲酒しつつ久々にカッターナイフで削ったステッドラーの鉛筆は、一寸歪でごつごつとした形だった。

初対面で、背中に翼のイメージが浮かんだ人がいる。
浮世離れということではなくて
生えているのが自然だと思えるような背中に見えたのは何でだったのだろう。
持っているエネルギーの大きさが、翼というかたちをとったのだろうか。

次は両翼の揃った背中の絵を描きたいけれど
翼は背中のどこから生えているものなのだろう。
肩甲骨?

ニケの画像を検索してみたら美しすぎて困った。
以前ルーヴルで実物を見た時には感じとれなかったものを
今なら感じとれそうな気がするし、もし今見たら泣いてしまいそうな気がする。

存在の認識は自分という柔らかななまものをつかっているわけだから
その時その時で響き方が変わっていて当たり前だし
逆にそれは同じ響き方を求めても戻れないことがあるってことだ。

でもそれでいいんだと思う。
新しく鳴らす音が見せる景色をトレースした先にある何か。

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2013/02/14

過去が散らばる数だけ

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未来を過去の犠牲にするな、という言葉を目にした。

もう済んでしまった過去へのいいわけ。
傷ついた言葉への空反論。

気付くとその端っこをひゅるっと捕まえて、形状をなぞる。
そのかたちは、以前よりも大きくなっていたり歪になっていたりする。
反芻して取り出して向き合っているその時間、等しく未来を失ってしまうのに。

***

私一度苦手意識を持った人への拒絶感が半端なさすぎてこれは変えた方がいいのかどうなのかと時折考えるのだけれども、感性合わない人をいちいち丁寧に受け入れる必要があるのかどうかも謎だし正解はよくわからないしみんなどうしているのだろう。

若い頃程、そういう無理をしなくなったな。

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2013/02/07

1日1日

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1日1日が終わる時に
不要なものをきちんと手放せる人になりたい。

思考の水の中でぐるぐるかき混ぜてしまっても
濁るだけだから。

雪がちらつくような冬真っただ中でも
春の陽射しの予感に思いを馳せたい。

強がりでがんばりすぎ、と言われた。
冬眠でもしたらよいのかもね。
何にも考えないで点になって昏々と眠りの中に身を浸したい。

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2013/02/03

混ざりきらない色

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先日、風邪がなかなか抜けず気持ちも弱っていたので、花を買った。
花弁がひらひらとして、赤と黄の2色で彩られたチューリップ。
はじめ少しくたびれている花を選んでしまったようで、お店の方が親切に元気な花を選び直してくれた。

身体が弱っている時は、思考にも余剰がなくて。
仕事のデザインとか、ねばならぬことは黙々と出来るけれど
外側から刺激を受けぬことに関しての自由思考が全然できなかった。
頭の中がみっちり固くなって、振動が起こせないから何も生み出せない、ような。
もし毎日あんな感じだったら人生つまらないだろうな。
でも、日々考えごとをするようなことがない人っていうのは、常にああいうコンディションだったりするのだろうか。

思考の幅だけ、人生は彩られる。

ああ、早く今抱えている別件作業を片付けて
自由な創作をしたい。

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2013/01/16

命を紡ぐもの

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今日の朝ツイートした、屠殺の話なのですが。

今年も普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたよ。(ちはるの森)

「なんでこんな残酷なことをするのか」という意見も送られてくるそうで。
でもその人って、完全なるヴィーガンなのだろうか?
もしそうだとしても、だったら一個人のブログに文句を言う前に、肉食を禁止していない日本政府にでも文句を言ったらいいし、ヴィーガンでも何でもなくただ屠殺の模様が残酷だからブログに載せるなというのであったら、では貴方がお昼ご飯に食べた牛丼に使われた牛肉はいつどこで誰がどんな牛を殺したことによって齎されたのか考えたことはある?という話。

私自身は屠殺をしたことがない。
屠殺どころか、生き物の命を奪う行為というと蚊やゴキブリの類いを殺したことがあるくらい。

私はお肉もお魚も食べる。
でも、私が食べるお肉やお魚っていうのは、当然どこかで誰かが殺したもので。
それらは切り身にされてパック詰めにされていたり、外食であったら当然調理済みの姿ででてくるもので、そうしてワンクッションもツークッションもおいてしまうことで、「命」という形状からはどんどん離れて「食べ物」になってしまう。

それが殺される前には命ある生き物であったことを、私たちは食事の度に思い出せているだろうか。
感謝できているだろうか。

肉食を「罪深い」と言う人があるけれど、そうなのだろうか。
本当の罪深さは、食べ物に感謝できない人にあるんじゃないだろうか。
スーパーやコンビニなどで大量に廃棄される食べ物、必要な分だけでよかったのならもっと死ななくてよかった命はたくさんあったのでないの?と思う。
何で必要な分だけにできないのだろう。
多少足りないくらいでいいのではないだろうか。

私たちが口にいれる『食べ物』は、みな等しくもとは命あるものだったってこと。
お肉だってお魚だって野菜だって、みんなみんな生きていたのだっていうこと。
はじめから生命のないものを私たちは食べることができないのだっていうこと。
当たり前のそんなことを再認識させられた。

たくさんの命によって紡がれている、それもまた命で
命は他の命によってしか生かすことはできない。
だから、私たちはきっともっと「生きること」「食べること」を考えて考えて
そうして毎日毎日感謝していかないといけないのだと思う。
この便利な世の中に生まれてしまったことによって忘れてしまいがちなそのこと。

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「命の認識」展(東京大学総合研究博物館)

映画「いのちの食べかた」

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