浮力
※一寸前にtwitterでもアップした、モデル不在で描いた妄想のキジトラさん。
自分の行動範囲を思い込んでいる裏では、大して価値のないものを守っていたりする。
世界の広さ。
繰り返しの磨耗の後に忘れてしまうのは何故だろう。
安寧に甘えてしまわないように。
いつでも思考をばらせるように。
※一寸前にtwitterでもアップした、モデル不在で描いた妄想のキジトラさん。
先日、ベーコン展の後、
先日、東京国立近代美術館でやっていた「フランシス・ベーコン展」へ。
日本で個展が行われるのは実に30年振り。
作品は、3部にわけて展示されている。
第1部は「移りゆく身体 1940s-1950s」
この時期描かれた作品の身体が「移行状態」にみえるからこのタイトルになったらしい。
初期のベーコンの作品は、どこかこの世のものではないものを感じさせる。
ぽっかりと穴のように開いた黒々とした口は身体のどのパーツよりも強い存在感を放ち観る者を吸い込んでしまいそうだし
半透明で闇に溶け込んでしまいそうな身体は亡霊のようでもある。
椅子に座り檻に囲まれた人物は、地縛霊のように永遠にそこから逃れられない。どこにも行けない。
開いた口からは漆黒に轟く悲鳴が発せられ、ただただ闇に深く沈んで飲み込まれていく恐ろしさの余韻が残る。
はじめに人物の口の中へ吸い込まれようと、人物と一緒に闇へ引きずり込まれようと、結局は行き着く場所は同じところ、人の身体の内側にある人の暗部なのかもしれないという外側と内側がぐるぐるぐるぐると永遠に入れ替わるようなくらくらと目眩がしそうな、檻の中へと入ったら最後なかなか出られなくなるような絵の魔力。
展示のはじめっからがつんとその濃さにやられっぱなし。
この第1部の中で、ゴッホの絵をもとに描かれた2作品だけは他の作品とは色彩の激しさも筆の強さも異なる。
人物の輪郭はくっきりと描かれ、そして赤やオレンジや緑や水色といった明瞭な色が厚く塗られている。
南仏などの明るい陽射しの影響もあると言われているらしいけれど、平和であたたかい感じになりそうでやはりどこか根っこに暗さが残る作品のような気もする。
好み的には、はじめの亡霊的な絵のシリーズの方がよかった。
残り2部と比較しても、この時期が一番好き。
第2部は「捧げられた身体 1960s」
一番印象的だったのは、チケットや図録の表紙にもつかわれている、当時の恋人ダイアを描いた作品。
警察の記録のように3方面から描かれた頭部は、ぐしゃりと歪んでいる。
その3つの顔の中には、弾痕とも受け取れる黒く丸い穴。
恋人の顔を破壊した形で描こうとするのは、愛情が強過ぎる故、なのだろうか…。
銃弾を打ち込んでもなおも絡み付くようなねっとりとしたものを感じる絵。
第3部は「物語らない身体 1970s-1992」
三幅対の作品が中心なのだけれど、一番印象に残ったのは鍵穴を回す人を描いた作品だった。
頭の部分は黒く暈され、半透明の身体で必死に扉を開けようとしている。
死を表現した作品ということなのだけれど、単純にこの世からあの世へというようなものではなく、もがき苦しんで逃げようとしているように見える。
死は死でも、大往生ではなく焦燥感によって追いたてられた自殺のように感じる。
向こうに行ってしまったら、本当に二度と戻れないのに、それでも必死で鍵穴を回そうとする姿が怖い作品。
あとは、ベーコンに影響を受けてつくられたペーター・ヴェルツとウィリアム・フォーサイスのインスタレーション作品と、土方巽の舞踏公演「疱瘡譚」の記録映像の展示があった。
ベーコンの作品に影響を受けたアーティストが多いっていうのはよくわかる。
ものすごい引力と魔力がある。
連れが「ルドンとかマン・レイもいいし好きだけれど、迫力ではベーコンが一番」というようなことを言っていて。
たしかにオディロン・ルドンとかマン・レイは二人とも大好きな作家だし以前一緒に観ているのだけれど、何て言うか「生の作品」の迫力とか衝撃度はそんなに大きくなかった。
それこそ、家で作品集をこぢんまり観るという楽しみ方でもよいような気がするし、そういうのが似合う繊細な作品だ。
でもベーコンは、「生だからこそ」の作品から感じるエネルギーが凄まじい。
うっかり気を抜いて観ていたらやられてしまいそうな気がする。
だから、今回の展示のタイトル
目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。
が、まさにドンピシャ。
これは体感しなきゃだめだわ。
ベーコンの作品展示への拘り、必ず硝子をつけて額装するというのもよかった。
硝子があることによって、作品と鑑賞者との間に距離を生むことが狙いなのだそう。
手が絶対的に届かない、あちら側にある作品。
ベーコンの作品にぴったりな展示方法。
図録は生の迫力には及ばないけれど、やっぱり見返したいので購入。
ほんと行ってよかった…。
もらった刺激の量がすごい。
そしてこの後ポスターハリスギャラリーを梯子して寺山修司と天井棧敷全ポスター展も観たのだけれど、その記事はまた次回。
先日、チケットをいただいたので松屋銀座でやっている「スヌーピー×日本の匠展」へ。
入り口にスヌーピー。
作家チャールズ・モンロー・シュルツさんが「天才」と称賛した日本人アーティスト大谷芳照さんの作品を中心に、その他日本の様々な匠が作成したスヌーピーが展示されている。
大谷さんは、スヌーピーショップのデザインなども手がけているそう。
全面的に信頼されていたのだろうな。
初期のスヌーピーの絵や雑貨なども展示されていた。
スヌーピーって耳で空飛べたんだね…。
シュルツ氏のアトリエに実際に飾られていた、大谷さん作のモビールがかなりかわいかった。
スヌーピーやチャーリーブラウンの顔のパーツがそれぞればらばらになっていて、くるくるまわるうちに顔になりそうなならなそうな…という。
あとは、大谷さん作の書とスヌーピーをコラボレーションした作品たちもよかった。
「愛」という文字ではスヌーピーが愛をふりまいていたり、「祝」という文字ではスヌーピーが嬉しそうに飛び跳ねていたり、文字と絵がうまく組み合わさっていた。
匠によるスヌーピー作品は思った以上に数が多く。
瓦やら焼き物やら塗りやら硝子やら木やら着物やら、兎に角たくさんのスヌーピー。
焼き物系のスヌーピーは、大きめのスヌーピーがでんといて表面に模様がついているという感じでわりとどれも似通っていたので、もっと全然違うデザインとかだったら面白いのになという感じがした。
スヌーピー自身がシンプルな形だし難しいのかな。
連れが大谷さんを目撃したと言っていたのだけれど、私がそっちを見た時にはいなく。
幻じゃないかとか言っていたのだけれど、会場を出たらグッズ売り場にいらっしゃった。
真っ白いスーツの大谷さん。
グッズ売り場がかなり充実していて、展覧会限定グッズの中から和風牡丹柄のミニ巾着と萬古焼きの箸置きを購入。
金額を気にしなくていいのなら、欲しいものはまだたくさんあったけれど、いかんせん匠作の器とかはお高い…。
シュルツさんと大谷さんの信頼関係やたくさんの様々なスヌーピーが会場をとてもあたたかい雰囲気にしていて、やさしい気持ちになる展示だった。
先日、「会田誠展:天才でごめんなさい」を観に森美術館へ。
観る前にシナボン 六本木店へ。
連れが言うには、シナボンって日本の1号店は吉祥寺にオープンしたのだそう。閉店してしまって今はもうないのだけれども。
念願の?シナモンロール。
結構食べごたえがありそうだったので二人で半分こ。
熱々とろとろのシナモンシュガーソース。
甘過ぎず美味しくて半分をぺろっといただきました。
一人ひとつでも食べられたかも。
他店のシナモンロールは食べたことがあったけれど、今まで食べたシナモンロールの中では一番美味しかった。
会田誠展:天才でごめんなさい。
会田誠の作品を初めて観たのは、2001年に表参道のNADiffの小さなスペースで無料でやっていた食用人造少女・美味ちゃんシリーズの展示。
食糧危機に陥った未来の食材として開発された美味ちゃんは、少女型の食べ物。
食べられることを喜びとする生き物で、鯵の開きのようにされていたり、巻き寿司の具としてつかわれて切断されたり、押し出された身体からイクラ状のものやビール状のものを出したり、エログロ的なアート。それが絵と立体物とで展示されていた。
でも全然いやらしくもグロくもないのは、会田誠が描く少女が妙に爽やかで些とも嫌がっていないからなのだと思う。
エロって好奇の目にさらされている少女に拒絶や恥じらいの色が滲んだ時に初めて発露するような気がする。
だから、裸にされることを何とも思っておらず、ましてや調理されて食べられることを至福としている美味ちゃんに何が起きようとエロくもグロくもないんだわ。
表現内容の衝撃と爽やかさとの共存がとても新しくて、印象に残った展示だった。
会田誠の作品は、他は現代アート系の展示でちょろっと目にしたことがあるくらいできちんと観たことがなかった。
でもそのNADiffの展示が面白かったのと、「天才でごめんなさい」と自ら言ってしまうあたりで結構期待していた。
が。
結論から言ってしまうと、森美術館の広いスペースには合わない展示だった…。
私が良いなと思ったのは、少女モチーフの作品。
美味ちゃんシリーズや(量が少なかったけれど)、手足を切断されて首輪をかけられた「犬」シリーズ、巨大な山椒魚の横に少女が横たわる「大山椒魚」、旗を持って勇ましく立つ二人の少女の姿「美しい旗(戦争画RETURNS)」など。
彼が描く少女は丁寧で美しく、どこか魂がはいりきっていないハリボテ感がなんかいい。
みんな感情も思考も薄そうで人形っぽい。
もっとも「犬シリーズ」は、手足切断と首輪という悪趣味なことをしているわりに少女がきらきらしていて一寸疑問な作品ではあった。
でもその他の展示は、現代アートにありがちなアートを言い訳にした手抜き作品のように思えてしまってあまり好きではなかった。
小学生が美術の時間に描いたポスターのような作品は、画力のある会田誠があえて下手な小学生のような絵で描くところを面白がる作品なのかもしれないけれど、画力がある人が下手な絵を描くのは簡単だよね…とか。
主張したい内容に合わせたチラシをペタペタと貼ってそれに適当に絵を描いた作品は、チラシの選択も描かれたものもとても大雑把だったりとか。
全ページに落書きをした本の作品は、落書きそのものに意味はなくて全ページを埋めることに意義を求めてしまっていたりとか。
なんちゃって外国語を喋りながら絵を描く動画の作品は、雰囲気だけで終わっていたりとか。
萌え系アニメの絵を集めた熊手のような作品は、面白くも美しくもなかったりとか。
段ボールをつかって素人の普通の人たちに色々つくらせて壁一面を埋めようとした作品は、隙間も埋まりきっていない中途半端なものになっていたりだとか。
撮影可だった、《考えない人》。
でもこれ美しくないし、唸るようなコンセプトとかも感じられない。
一人でデモができる装置は面白かった。
マイクで喋ったことを、シュプレヒコールのようにちっちゃな人形が繰り返してくれるやつ。
かわいらしかった。
会田誠さんの作品は、小さな会場とかでサブカルの延長的に観る方が合っている気がした。
思いついたアイデアをただただ薄いまま量産している感じだから、立派な会場で観るとその適当な感じが一寸浮いてしまう。
もしくは少女モチーフなど緻密に描かれた作品だけ集めた方が好みだった。
「この散らかった状態そのものが会田誠なんだ」という感じっぽかったけれど、やっぱり私は詰めて詰めて昇華のレベルにまで達したものを求めたい。
とはいえ、世間的には結構評価が高い展示のようなのがよくわからない…。
現代作家さんなら、「高嶺格「とおくてよくみえない」(横浜美術館)」とか「幽体の知覚展/小谷元彦 (森美術館)」の方が濃くてよほど面白かった。
連れも同じ感想だった。
アートの好みとかが私ととても似ている人ではあるのだけれども。
強風でスカイデッキにははいれなかったので、展望スペースから東京タワー。
直ぐに灯が消えてしまったのだけれど、東京タワーっていつも何時に消えるのだろう。
地上いっぱいの光の群れは、いつ見ても不思議な感じがする。
俯瞰により意識させられるたくさんの世界。
いまいちだなっていう展示をわかりあえる人と観に行ってよかったな…。
ビール飲みながら言いたい放題できるものね。
今回は図録を買わずに、代わりにミュージアムショップで谷川俊太郎さんと宇野亜喜良さんのコラボ絵本 「おおきなひとみ」を購入した。
宇野亜喜良さんのサイン入りなのが嬉しい。
いい買い物。
先日、ふと翼の絵が描きたくなって衝動的に描いた。
飲酒しつつ久々にカッターナイフで削ったステッドラーの鉛筆は、一寸歪でごつごつとした形だった。
初対面で、背中に翼のイメージが浮かんだ人がいる。
浮世離れということではなくて
生えているのが自然だと思えるような背中に見えたのは何でだったのだろう。
持っているエネルギーの大きさが、翼というかたちをとったのだろうか。
次は両翼の揃った背中の絵を描きたいけれど
翼は背中のどこから生えているものなのだろう。
肩甲骨?
ニケの画像を検索してみたら美しすぎて困った。
以前ルーヴルで実物を見た時には感じとれなかったものを
今なら感じとれそうな気がするし、もし今見たら泣いてしまいそうな気がする。
存在の認識は自分という柔らかななまものをつかっているわけだから
その時その時で響き方が変わっていて当たり前だし
逆にそれは同じ響き方を求めても戻れないことがあるってことだ。
でもそれでいいんだと思う。
新しく鳴らす音が見せる景色をトレースした先にある何か。
先日、アンリ カルティエ=ブレッソンの展示を観にシャネルネクサスホールへ。
マグナムフォト系の展示をよくやるのでシャネルネクサスホールへは度々行くのだけれど、私自身が全然シャネルっぽくない雰囲気なので毎回ドアマンの方に対して少々肩身が狭い。
店内を進んでいかないと、展示会場へのエレベーターに乗れないのだものな。
ちなみに、エレベーターのボタンはシャネルのマークで並んでいます。
ブレッソンは、好きな写真家さんベストスリーには絶対はいる人。
パリに行った時にアンリ・カルティエ・ブレッソン財団を訪れちゃったくらい、本当に本当に好き。
彼の写真が一瞬で抱え込んだ空気感、あの空間の完璧さは何なんだろう。
きっと眼に映った光景以上の一瞬が其処には刻まれていて、あまりの濃さにぶるっとなる。
写真って絵画よりも手軽だから、スマホでもさくさく撮れる昨今それなりの写真を撮っている人って多いと思うのだけれど
本当に魂が込められた写真はそういったなんちゃって写真とはレベルが断然違う。
ライカの中のフィルムに焼き付けられたその一枚一枚から喚起される幅のいかに広いことか。
デジタルじゃないからこそ出来る偽りの無いその一瞬。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
先日、チケットをいただいたので「ベルサイユのばら展」へ。
連載開始40周年記念の展示。
ベルサイユのばらというと、私にとってはアニメのイメージ。
オープニングの、棘だらけの太い薔薇の蔓に絡まれた裸のオスカルというのが子供心にも衝撃的で、歌も「薔薇は薔薇は気高く咲いて 薔薇は薔薇は美しく散る」の部分をはっきりと覚えている。
小さかったせいで肝心の本編は断片的にしか覚えていないのだけれども、歴史にはあまり詳しくない私でも王妃マリー・アントワネットのことをぱっとイメージできるのって完全にアニメの影響なのだと思う。
会場は、はいってすぐに漫画の生原稿が100点近く展示されている。
ストーリーをおえるようになっているのだと思うのだけれど、兎に角人がすごくて飛び飛びでしか見なかった。
漫画は全然読んだことがないのだけれど、いつかちゃんと読んでみたい。
次に、宝塚のポスターや衣装の展示。
絢爛豪華。
男装の麗人って、宝塚でやったら相当はまるんでしょうね。
宝塚もこれまた一度も観たことがないのだけれど、一度は経験してみたい世界。
その後はアニメのセル画、ベルばらKids、他の漫画家さんたちによるオスカルのイラスト、カラーのイラストなど。
全然漫画を読んだことがなかったけれど、やっぱり生の絵ってきれい。
特にカラーイラストの色使いが繊細で美しかった。
そういえば作者の池田理代子さんは「作品を通じて多くの日本人がフランスに関心を持ったから」とフランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を授与されているそうで。
漫画を通して国と国を結びつけるって、本当に丁寧につくられた作品じゃないとできないことなんだろうな。
ああ、ますます読みたくなってきた…。
グッズ売り場も、展示オリジナルのものがたくさんあって大盛況。
オスカルの衣装も販売されていたけれど、買った人はいたのだろうか…?
どさくさに紛れてピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの薔薇グッズやフランス産の薔薇ジャム、薔薇っぽいアクセサリーとかも売っていたり。
ルドゥーテはマリー・アントワネットに仕えていたから「ベルサイユ」という大きなくくりでは関係なくはないのだろうけれど、ミハエル・ネグリンのアクセサリーとかは完全に雰囲気だけで販売していたのでは…。
作品に詳しくない私でも楽しめた、目に華やかな展示だった。
ベルサイユのばら40周年+デビュー45周年記念 池田理代子の世界 (アサヒオリジナル)
まずはこれを読んでみようかな…。
だいぶ前にチケットいただいたのでタツノコプロテンへ。
私にとってタツノコアニメって「タイムボカン」や「ヤッターマン」「ゼンダマン」などの主題歌は知っているものの、内容はうすらぼんやりという感じの存在。
観ていたのも多分再放送とか再々放送なのかな。
ああ、あと「みなしごハッチ」も観てた。やっぱり主題歌しか覚えていないのだけれど…。
お仕事で一寸関わったこともあり、何となく感慨深い気持ちで訪れた展示。
でもそんな前提を抜きにしても、見入ってしまった。
兎に角原画のクオリティが高すぎる。
アニメで流れるようなのじゃなくて、宣伝用なのか緻密に描きこまれた絵がとても美しい。
乗り物なんて本物と見紛うようなクオリティで至近距離で観察してしまった。
一番気に入ったアニメは「宇宙エース」
1965年5月から1966年4月まで放映されていたらしいのだけれど、白黒の時代であのかわいさと技術はすごすぎる…。
3兄弟で運営していたことや、吉田竜夫さんの娘のすずかさんが漫画家としてアクビちゃんのデザインを担当していたりとか、一族の人たちがきちんと絵の才能があることが素晴らしい。
一緒に行った人は私よりももっと世代であったのでとても楽しんでいるようだった。
展示の最後に流れていた「おはよう忍者隊ガッチャマン」が面白かったので、早起きしてZIP!を観ようと思いつつも実現できていなかったり…。
そういえばスケットダンスはいつのまにやらタツノコプロでアニメ化されていたのね、知らなかった。
グッズがかなり充実していたので宇宙エースを中心に色々買って帰りました。
画風とか変に今っぽくなっていた作品もあったけれど、現代風に迎合せずに守って欲しいな。
レトロな劇画調、好きです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ポスターハリスギャラリーでの寺山修司幻想写真館 『犬神家の人々』の後、渋谷パルコミュージアムでやっている鋤田正義写真展「きれい」へ。
今まで撮ってきた著名人の膨大な数のポートレイトから「きれい」というテーマで鋤田正義氏自身がセレクト。デヴィッド・ボウイ、T.REX、YMO、忌野清志郎、沢田研二、寺山修司、デヴィッド・シルヴィアン、ヴィヴィアン・ウエストウッド、ジム・ジャームッシュなど全73点のポートレイト作品たち。
カラーと白黒では別れていたけれど、それぞれは年代順に並んでいるわけではないのでそれこそ私が生まれる前に撮影された写真がつい最近の写真の隣に並んでいたりする。でも全然違和感がない。昔だろうと今だろうと、その人の魅力をきちんと切り取った写真はそれぞれが本当に「きれい」だ。
東京都写真美術館でも「鋤田正義展SOUND&VISION」が同時開催されているらしく、こちらは全仕事を俯瞰する回顧展なのだそう。
今月いっぱいだけれど、そちらも行きたくなった。
1972年から40年間デヴィッド・ボウイを撮り続けたという鋤田正義氏、下記の記事も面白かった。
「愛ですよ、写真とは」 鋤田正義・来豪インタビュー デヴィッド・ボウイを40年間撮り続ける写真家、限定本を出版で
記事の中で写真集を出した出版社のジェネシス社の丁寧な本づくりに関して触れられていて。
注文を受けてから手作りでつくって、一冊一冊にサインがはいるだなんて素晴らしい。
本は売れないなんて言われているけれど、読み捨てではなくてひとつの美しい「作品」として手元においておきたくなるような本を日本でもどんどんつくっていったらいいなと思った。
最近のコメント