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2013年1月

2013/01/20

スマートノート風のもの、はじめました。

Lifenote

先日ツイートしたように、毎日ノートを書くことをはじめました。

きっかけは、「スマートノート」というものを知ったこと。
実践されている方のブログをたまたま読んだのだ。

***

やり方

  1. ノートの見開きの右ページに、その日あった5つのことを書く
  2. 見開き左ページに、右ページの感想を書く
  3. 5つの出来事を5段階で採点する。採点をすると、評価の低いことを自然とやらなくなる。
  4. 上記に慣れてきたら、問題を論理的に考えて自分なりの結論を導くようにする。

※左ページには自由に図等交えて書いてOK

上記のやり方は、だいぶ端折って書いているので興味のある方は「あなたを天才にするスマートノート」を読んでみて下さい。

***

私自身、文章のアウトプットは基本的にはこうやってPCを使って行うことが多い。
自分の思考を文字という形に落とし込む際に、手書きだとスピードが追っ付かないけれどタイピングだと、ほぼ同時くらいにパチパチいけるし。
どばーっと頭の中に沸き上がり流れてくることを、パチパチパチパチトレースするのであれば、やっぱりPCの方が向いている気がする。

でもスマートノートは手書きで行うので、PCなどデジタルによるアウトプットとは違って
右脳左脳両方を使えるから発想の枠が広がるのだそう。
それを繰り返していくことで身に付くのは、「発想力」「表現力」「論理力」
だから多分、今もっている主張を記すというよりは、形になる前の要素を散りばめて像を結んでいく力が強いのだろうな。
イラストや図も添えられるし。

スマートノートは、なぜ右ページからはじめるのかというと、あえて左を空けておくことで
「何か書かなきゃ」と思わせることが狙いなのだそう。
そして、このノートを続けていくことで、脳内リンクが起こる瞬間があるのだという。
自分がそれまで書きためていた要素が、繋がって、繋がって「わかった!」と思える瞬間。

その話を読んだ時に、「あ」と思った。
私日頃よく脳内でそれやっていた…と…。
私は「考えることが趣味」みたいな部分があって、
それは自分の身に起きたことも、世の中の出来事も色々で
物事の真理みたいなことを延々追及していたりする。
以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークに参加した時は「人は何をもって存在を認識するか、在るとはどういうことか」を考えていたってことを以前の記事にも書いたけれど。

過去記事
ダイアログ・イン・ザ・ダーク(Dialog in the Dark TOKYO 2009)

これもう4年も前なんだな・・・

多分、「何かをつくりたい」欲求が一般的な人よりも強いことも原因にあると思うのだけれど。
要素と要素をばらして再構成したり、物事と物事を繋げるポイントを探したり。
そういうことが好きだから、延々考えていることの果てに、必ず「あ!」と思う瞬間がある。
そんな感じで考えごとをしている時は魂抜けたような感じで歩いていたりするので、たまに知り合いとすれ違っても認識するのに時間がかかったりする…。

そんな感じなので、さっそくスマートノートの定義からは逸脱しまして。
「何でもいいから、毎日ノート見開き1ページを埋める」に変えました。
Twitterやブログもあるから、アウトプットの棲み分けに迷いそうだけれど
今のところ、その日のメモ的に使っています。

そうして、さっき久々にダイアログ・・・の4年前の記事を読んで
私最近以前程アグレッシブに頑張れていないんじゃないかなって気がしてしまった。
単に、最近はブログとしてアウトプットして残す量が減っているからなのかもしれないけれど。
見返せるから、せめてもっとちゃんと記事にしていこう。
デジタルのよいところは、後で検索ができるところだし。

先日リツイートしたこの言葉には、全てが集約されている気がする。
そう、人って繰り返しがいつしか染み付いて抜けられなくなるんだよね。
その色に染まりきってしまうと、それがその人の色になってしまう。
よくも悪くも。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
−マザー・テレサ−

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2013/01/16

命を紡ぐもの

Img_2690

今日の朝ツイートした、屠殺の話なのですが。

今年も普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたよ。(ちはるの森)

「なんでこんな残酷なことをするのか」という意見も送られてくるそうで。
でもその人って、完全なるヴィーガンなのだろうか?
もしそうだとしても、だったら一個人のブログに文句を言う前に、肉食を禁止していない日本政府にでも文句を言ったらいいし、ヴィーガンでも何でもなくただ屠殺の模様が残酷だからブログに載せるなというのであったら、では貴方がお昼ご飯に食べた牛丼に使われた牛肉はいつどこで誰がどんな牛を殺したことによって齎されたのか考えたことはある?という話。

私自身は屠殺をしたことがない。
屠殺どころか、生き物の命を奪う行為というと蚊やゴキブリの類いを殺したことがあるくらい。

私はお肉もお魚も食べる。
でも、私が食べるお肉やお魚っていうのは、当然どこかで誰かが殺したもので。
それらは切り身にされてパック詰めにされていたり、外食であったら当然調理済みの姿ででてくるもので、そうしてワンクッションもツークッションもおいてしまうことで、「命」という形状からはどんどん離れて「食べ物」になってしまう。

それが殺される前には命ある生き物であったことを、私たちは食事の度に思い出せているだろうか。
感謝できているだろうか。

肉食を「罪深い」と言う人があるけれど、そうなのだろうか。
本当の罪深さは、食べ物に感謝できない人にあるんじゃないだろうか。
スーパーやコンビニなどで大量に廃棄される食べ物、必要な分だけでよかったのならもっと死ななくてよかった命はたくさんあったのでないの?と思う。
何で必要な分だけにできないのだろう。
多少足りないくらいでいいのではないだろうか。

私たちが口にいれる『食べ物』は、みな等しくもとは命あるものだったってこと。
お肉だってお魚だって野菜だって、みんなみんな生きていたのだっていうこと。
はじめから生命のないものを私たちは食べることができないのだっていうこと。
当たり前のそんなことを再認識させられた。

たくさんの命によって紡がれている、それもまた命で
命は他の命によってしか生かすことはできない。
だから、私たちはきっともっと「生きること」「食べること」を考えて考えて
そうして毎日毎日感謝していかないといけないのだと思う。
この便利な世の中に生まれてしまったことによって忘れてしまいがちなそのこと。

関連記事

「命の認識」展(東京大学総合研究博物館)

映画「いのちの食べかた」

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