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2011/08/08

面妖な泡沫

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自分という存在やそれを取り巻く世界を認識する術は。
記憶と感情とが織りなしてみせるものに身体のコンディションをデコレーションしたものなのだろうか。

毎日毎日もう何年も生きていても、未だによくわからないのだよな。
むしろ、若い頃の方が目の前のものを素直に受け取ってその都度上手に消化して昇華してもっと単純に生きていたような気がする。

一人で街を歩いていて、ふっと空を見上げた時。
部屋で目を閉じてじっと考えごとをしている時。
やっぱり相変わらず私は周囲からぷつりと切り離されてしまって、今まで繋がっていたはずの沢山のことがふっと遠くなってしまう。
日々、集団の中でコミュニケーションをとっていたはずの自分が嘘のようで夢のように忘却してしまいそう。

その一方で何かを心に病んでじっとりと熱い膿をもったかのように蝕まれて縛られて何処にも行けずに苦しくてたまらない時間を過ごしていることもある。
酷い呪いみたい、あれは。

そのどちらもが私という人間を媒介にして霧のように炭酸の泡のようにふつふつと生まれてくる目に見えぬものなのだから、結局のところ何なんだろうねってことになる。
私が言葉にして形を与えないかぎり、私の内側で起こっていることなんて何処の誰にも知られないのだから。

幻のようなものに翻弄されてそうして泡沫のような短い人生を辿っていくのであれば折角ならば楽しい日々で埋め尽くせばいいのに変な悩みを抱えてぐずぐずしていたりするのだから人ってとても面倒で面妖な生き物だよね。
たとえば猫だったら、過去のことや自分と他の関係性や人の目なんてものなども一切合切気にしないでその場その場で自由に生きているのだものね。って。確認していないから多分だけれども。

受容されて固定されていないということは同時にとても自由でそうして何処へでも行けるってことにどこかに着地してしまう前にきちんと実感を持ってそうして生かしていけたらいいのにと思いながらもふっと寂しくてしくしく泣いてしまいそうになるのだからやっぱり面倒で面妖でこんなに弱くて食物連鎖によくもまぁ勝って生きているよなとか思ってしまったりもする。

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