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2011年5月

2011/05/31

右の脳と左の脳

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仕事の合間に読んだ記事で、右脳と左脳についていわれていて。
右脳が今というかたちをみて世界と繋がっている一方で、左脳は過去を処理して未来の可能性をみせその時世界から切り離されているというような話。
右と左で違う空間で生きているみたいで一寸面白い。
カチリカチリと沢山のチャンネルでも存在するかのようで。

脳が手繰り寄せ見せる幻影で一喜一憂。
目に見えぬところに楽しい幻を見せてくれるのならよいけれど、そこに苦しみを生んでしまうことのほうが多いような気がする。
未来に起こりうる危険を回避したり、自らのおかれている立場を理解したりといったことのためには左脳の分析だったり紐づける力って必要なんだろうけれど。

私はよく世界から切り離されたような感覚を持ってふらふらしていたりするけれど。
それって感覚的な右脳の仕業にみえて、実は左脳の仕業だったのか。
でも私の場合、その世界の枠組みの外に出てしまったような感覚に陥っている瞬間って、過去も未来も見ていない気がする。
自分という存在自体も曖昧で中心にぼんわり薄い思考があるような。
強い思考がある時はおそらくきちんと世界を意識しているから。

過去だったり未来だったりをみている時は。
どちらかというと地上から伸びる蔓にくるくると巻き付かれて現実感がきちんとあるように思う。

猫も回想するのかね。
きいてみたけれど教えてくれなかった。

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2011/05/16

ヘンリー・ダーガー展 アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く「非現実の王国で」(ラフォーレミュージアム原宿)

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ラフォーレミュージアム原宿でやっていた「ヘンリー・ダーガー展」へ行って来た。
開催前から知っていたのに、何故最終日に滑り込むのか、私…。
最終日だけあって混んでいた。

アメリカン・アウトサイダー・アートの作家の一人ヘンリー・ダーガー。
彼のことは知っていたけれど、展示で観るのは初。

81歳で亡くなった後に大家夫妻によって発見された15冊1万5145ページの物語『非現実の王国で』とそのために描かれた約300点という膨大な量の挿絵。
彼は、写真や挿絵をトレースすることで独特の画風を確立している。

独りで自室に籠ってつくりあげた「非現実の王国」の物語。
誰に見てもらおうというのでもなく、完全に自己完結の世界。
表現者として、他者を意識しない表現活動って何なのだろうと考えてしまう。
誰とも親しく交流をしなかった、本当に孤独だったダーガーにとって、自分の存在意義を確かめ対話する唯一の場所が自ら構築した物語の中だったのだろうか。

自分の死後は処分してくれと言っていたらしいのだけれど、今ではこうして美術館で有名なアウトサイダー・アートとして掲げられている。この状況を彼自身はどう思っているのだろうか。
これって彼への冒涜にならないのだろうか。
誰かに見られることを想定しないものといえば日記のようなものであろうか。
日記を、死後処分してくれと言っているにも関わらず、アートだからという理由で公開されたら自分ならどう思うのだろう。
昨今では日記もblogとして第三者に読まれる想定で書かれていることも多いから、完全に自己の内だけで創作して留めておくということをしている人は少なくなっているのだろうけれど。

彼の作品は毒を含む。
少女なのに身体にペニスがあったり、兵隊が首を絞めて子供を殺害しようとしたり、惨殺されて臓物が露になっている沢山の子供たちがいたり。
もし彼の作品がただの綺麗なだけの絵本だったらここまで有名にならなかったのだろうな。
誰かに見せることを想定しない一寸の残忍さを孕む独特の絵だからこそたくさんの人の心を掴んでしまったのだろう。

目眩を起こしそうに似た姿で増殖する少女たち。
羽根のついた不思議な生き物。
残忍な兵士と少女たちの死体。
戦い。
花畑。
非現実なその国に一寸足を踏み入れただけで私はくらくらとしてしまった。
永遠に終わらずぶくぶくと泡だち変容する奇妙な塊のようにみえた。
不気味さ含め好きなテイストではあるのだけれど。
毎日毎日この物語とともに生きていたダーガー。
彼の視点で、この世界はどう見えていたのだろう。

誰の目も気にせずにつくりたいものをつくることは純粋な表現なのだろう。
でも、完全に外に出すことを想定しないその行為はアートなのだろうか。
本人が希望していないのに、これは素晴らしいからと世に出すことは果たして正しかったのだろうか。
ダーガーの作品を観る度に、表現とかアートとかについて考え込んでしまう。

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2011/05/09

シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―(国立新美術館)

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先月、国立新美術館でやっていた「シュルレアリスム展」へ。

シュルレアリスム好きとしては絶対に行こうと思っていたので、事前に前売り券を購入。
普通の前売り券は1300円なのだけれど、リサとガスパールのグッズが色々ついて1500円のお得な前売り券があったのでそれをオンラインで購入。
【セットA】はポストカード、ピンバッジ、クリアファイルのセットつき。
【セットB】はポストカード、万年筆のセットつき。
同行者の分含めて、ABをひとつずつ購入。

国立新美術館はオンラインでチケットが購入できて、当日プリントアウトしたものを受付で見せればいいというのがとても便利。

美術館に行く前にランチを食べようということで、路地裏をぷらぷらしてたまたま見つけた「萬家菜」という中華のお店でランチ。
回鍋肉と鶏肉もやし炒めを頼んでシェアしたのだけれど、どちらも本格中華の味で美味しかった。
日曜日だったのだけれどお店は混んでおらず、穴場な感じ。
ただとても量が多かったので、美術館にたどり着いても満腹だった…。

国立新美術館へ行くのは、昨年のマン・レイ展以来。(感想書いていないままだった、今度書こう…)
他のシュルレアリスム系の展示で見たことのある作品もあったけれど、全体的には見たことのないものが多かった。
特によいなぁと思ったのは以下。

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・アルベルト・ジャコメッティ『テーブル』
不揃いの脚をもつテーブルの上にヴェールを被った女性の頭部と腕がぽんぽんと置かれているブロンズ像。見開いた目とか、手首のごろっと間が妖しくて素敵。

・マン・レイ『女の胸像』
裸の女性の腰から上のポートレイト。陰影のつき方とか美しい。

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・ヴィクトル・ブローネル『マンドラゴラ』
抽象化された人の肩にとまる鳥猫の緻密さが好き。目がビー玉のよう。

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・マックス・エルンスト『最後の森』
エルンストというと、私はコラージュが好きなんだけれど。
でもこの油絵はのびやかな曲線や森全体を包む青さとかとても美しかった。

1938年の「シュルレアリスム国際展」の様子なんかも写真で紹介されていて、なんだか文化祭的なノリで楽しそうだった。行ってみたかったなぁ。

あとは、映像作品「アンダルシアの犬」が衝撃的だった。
ルイス・ブニュエルとダリの共作。
お互いがみた夢をベースにつくられた実験映画らしいのだけれど、眼球を切り裂くシーンがリアルで思わず目を逸らしてしまった・・・。
でもそのシーン以外は、不条理なんだけれど場面場面が面白く、とても好みだった。
ちなみに主人公の男性が引っ張る紐につながれた修道士の一人はダリ本人なのだそう。

で。
この展示で何よりも気になったのが…「アンドレ・マッソン」
出品作の4割を占めるんじゃないかという彼、あちらにもこちらにも作品が展示されている。
え、この人…(上手くない…?)とか。
オートマティスムだからって好き勝手描けばいいわけじゃないよねとか。
たくさんの疑問を抱きつつも、展示の最後には彼に対してどことなく愛着がわいてしまうこの展示の顔、マッソン。トリも飾っているのだもの。
歴史的にはすごい人なのですよね、きっと。
楽しい思い出をありがとう・・・。

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美術館内のカフェでは、期間限定でリサとガスパールのドリンクが楽しめる。
リサの“ラズベリーラテ” とガスパールの“ダブルエスプレッソラテ”。

リサはラズベリーが結構しっかりきいていて美味しかった。
ガスパールはほろ苦い大人な味。

リサは絵本の中で、パリの「ポンピドゥセンター」の中にこっそり住んでいる設定なので、今回のナビゲーターに決まったのだそう。

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今回、地下のミュージアムショップで売っているリサとガスパールの絵本をプレゼントしてもらったのだけれど。
なんかもうそのストーリーの面白さにはまりそう。
富士山と桜なんて表紙だけなのよ。
日本に来ているのにクローズアップされるのはトイレやらフクシマさんの骨折やらで、日本の名所なんて些とも紹介されやしない。
どの作品よりもシュールなリサとガスパールがすっかり好きになった。
他の作品も読んでみたい。


リサとガスパール にほんへいく

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2011/05/01

お伊勢さんと畏怖

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昨年の5月末、初めて伊勢神宮へ行った。
行こうと思って行ったわけではなく、 名古屋に知り合いがいるので一人旅プラス一日案内してもらおうくらいの旅を企画していたら、同僚に「近いから行ってみたら?」と伊勢神宮をすすめられ、行かねばならぬような気がして行った。

外宮から内宮へまわるという、正しいとされる順路で巡ったのだけれど。
外宮の時点で、度肝を抜かれた。
なんだかもう、すごいのだ。
本殿のまわりを取り囲む空気の密度と種類が圧倒的に違う。
重過ぎてぎゅぎゅいと視界が歪む。
なんだろう、ゆらゆらしている。
水の中に濃度の重いものを垂らすと湯気のようになるけれど、あんな感じでね。
私たちを取り巻く普段の空気と圧倒的に違う何かがどっしりと鎮座していて。
そこから発せられる引力ももの凄くて。
そのスケールの違いに、暫し呆然。

私は、普段から目に見えないものを感じやすいほうだとは思う。
それでも。
自分とは圧倒的にスケールの違うものに対する「畏怖」を。
生まれて初めて感じた。

私たちは。
本来そういう畏怖を持って生きていなければならない気がする。
この地球上には。
私たち人間の意志では力量では、絶対的にかなわぬものがあることを。
自分たちが、地球という大きな場所にいさせてもらっている、ほんの小さな生き物であることを。
自然と共生している昔の人にとっては、こうした「畏怖」はもっと当然のようにあるものだったのではないだろうか。
人工物に囲まれてそれらから遠い生活をしている私たちは、備わっているべき感覚が麻痺してしまっているんじゃないだろうか。

伊勢神宮にはなかなか行けないけれど。
近所で強さを感じる場所は、井草八幡。
鳥居の向こうに、伊勢神宮のような濃い密度の空気が横たわっていて。
行く度に、鳥居の外との空気の種類の違いに、ほえーとなる。
ここは伊勢神宮のように「畏怖」を感じる程桁違いなものではないのだけれど。
でも行くと頭が浄化されたのかなというくらい清々しくなるので、度々訪れる。

原発の問題を聞いた時に一番気になるのは。
私たち生物のことだけではなく、地球への影響。
放射性廃棄物は、最終的には人間環境と隔離するために地下深い地層の中に埋設処分されるのであるという。
人間にさえ影響がなければいいやと、人間が触れたくない有害なものを地球の中に埋めるっていうシステム自体がおかしくないだろうか。
私が地球だったら、全身で拒絶したくなる。

地球へ。
畏怖なる存在へ。
攻撃的なことを続けていたら。
いつか私たちは滅びてしまうのではないだろうか。
ジェームズ・ラブロックの「ガイア仮説」に基づいても、
地球にとって有害な生物でい続けたら、地球の自己調節システムによって退治されてしまう。
地球にとっての私たちは、私たちにとっての細菌レベルなのだから。

私たち人間は。
本当はもっと、畏怖の存在を知るべきで。
そして地球をもっといたわっていくべきなのではないだろうか。

ただ、個人でそういう考えに行き着いても。
実際その為に具体的に何をどう自分がアクションしていったらいいのかは難しいなと思うのだけれど、たとえば、周囲に自分の考えを話すだけでも違うのではないかと思う。
「大切にしよう」を心がけて生活していく人が少しずつ増えていくだけでも、何かが一寸ずつよくなっていくはずだから。

良い心で毎日を楽しく過ごすこと。
気張らずに、気付いたことがあったら出来る範囲で実践していくこと。

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■関連記事:リオの伝説のスピーチ

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