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2011年2月

2011/02/23

幽体の知覚展/小谷元彦 (森美術館)

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2月上旬、森美術館でやっている「幽体の知覚展」へ行ってきた。
スカイプラネタリウムにも行きたかったので、滑り込みで。

以下、印象に残った作品の感想。

ファントム・リム(幻影肢)
ラズベリーの果肉で手の平を真っ赤に染めた少女が横たわっている写真。
彼女の手は血に染められた切断面のようにも見える。

タイトルの「ファントム・リム」とは、足など身体の一部を切断してもその感覚が残る現象のことである。

幼い頃にはしていたのに大人になってやらなくなってしまった、食べ物を手で潰して手をベタベタに汚すという行為。
その手の平の赤さはいつの間にか失ってしまった私たちの内に眠る様々な記憶を呼び起こすような不思議な懐かしさを孕んでいる。

血にも見える赤さは純粋無垢な少女の内に潜む暴力性や残虐性を表現しているようにも思えて、印象に残った。

ヒューマンレッスン(ドレス01)
二頭の狼の頭と七頭分の毛皮を使ってつくられたドレス。
裾からはパンプスを履いたマネキンの足が覗いていて、その構成のうまさに感嘆する。
生々しいこのドレス、でもそこここで売られているリアルファーを使った製品ってこういうことだよねということがストレートに伝わってくる。
ちなみに私は猫を飼ってからリアルファーは一切駄目になってしまった。
フェイクでいいのに何故わざわざリアルファーを纏うのだろう。

Double Edged of Thought(ドレス02)
人の毛髪の三つ編みでつくられたドレス。
髪の毛って痛覚がないけれど、でもどうしてあんなに人の存在感を秘めているのだろう。
怨念とか執念とか、人の気持ちの濃いところは最終的に髪の毛に流れ込むのだろうか。
そういえば動物の毛皮は纏うのに、人の髪の毛はなんで纏わないのでしょうね。
まぁ、人毛って何だか痒い気がするけれど、どうして肌に触れて心地よいようには進化しなかったのかしら。そもそも、獣のように、纏わずしても四季に合った体温調節ができるようにはどうしてならなかったのだろう。
身体に残る毛を脱毛して、そうして他の生き物の毛皮を纏うとかって、何かが歪んでいないですか。ね。
と言いながら、毛皮は纏わずとも私も身体のお手入れはするし、皮革製品は使ってしまうのだけれども・・・。

Fingerspanner
ヴァイオリンを模した指の矯正器具。
美しい演奏をするために身体の変形さえも厭わないというそのストイックさ。
表現の為に内に向かう刃、その究極の美意識の裏にはほんの一寸の狂気も垣間見えるようで怖くなる。楽器を演奏するための矯正であるのに、身体の一部が楽器と化してしまい、見方によっては楽器に支配されているというところが。

Ruffle (ドレス04)
永遠に海面を漂うことを想定した、巨大なスカート形状の拷問器具。木製で筏のように海面に浮くことができ、その中心に身体を通す。腰から上が海面上にでて、腰から下が海中に沈むようになっている。
無防備に海中に足が投げ出されていても、巨大な器具に阻まれて手は足を庇うこともできない。波をかくことすらかなわない。茫漠とした海原でただ波に身を任せ、冷たい海水に体温が奪われ海中の生物に食いちぎられていくことを受け入れるしかない。
絶命の瞬間をただただ抵抗せず待つしかないというのは、あっさりと命を絶ってしまう拷問器具よりも残酷なように思う。
その役割とは裏腹に、これを装着した女性の写真はとても美しかった。

Inferno
上下鏡張りの小さな部屋の中、壁には滝の映像が流れている。
靴を脱いではいるのだけれど、鏡の上をひたひたと歩くのは一寸心許ない。
音楽とともに流れる滝の映像は、時に巻き戻ったり早送りになったり。
映像は上下の鏡にも反射しており、中にいるとどっぷりと飲み込まれてしまう。
動いているのは映像なのに、自分自身が上がったり下がったりしているかのようで。
ぐるぐると自在に動く時間の波に翻弄されるような不思議な体験ができた。
くらくら。

SP2:New Born series
動物の骨の形をパーツにしてつくられた架空の動物たち。
架空なのに化石標本のようで。
なんとなく、テオ・ヤンセンのビーチアニマルっぽい印象を受けた。
パーツの集合体なのに、生命の痕を感じさせるような。

Classical Drive
白鳥が壁に激突して死ぬ瞬間を表現した作品。
既に生を失った剥製に死を演じさせる、というそのコンセプトに一寸ぞわりとした。

Hollow series
目に見えないエネルギーを造形化した白いシリーズ。
ユニコーンに跨がった少女や、壁から生えた無数の腕、何かを吐き出す巨大な顔など。
沸き上がるエネルギーを表現した曲線の絡まり方が秀逸で、とても美しい。
私たちを覆っている表面の膜を取っ払ってしまったら、中から漏れ出すものはこんな形状をしているのかもしれない。
展示タイトルの「幽体」を最もイメージさせる内容だった。

Rompers
一見幼児向けのかわいらしい番組であるように見せながら、エログロな要素が潜む映像作品。
流れる音楽も永遠に繰り返されるその光景を象徴しているような感じで、深く考えるとくらくらと目眩が起こってしまいそうな作品。でも私は結構好き、こういう感じ。

ここに感想を書いていないものも含め、作品のコンセプトとクオリティと、どちらも非常にしっかりとしていて満足感の高い展示だった。
コンセプトばかり壮大で、作品自体は「え、手抜き?」というようなシンプルだの斬新だのを言い訳にしたようなものって世の中たくさんあるものね・・・。

小谷さんの作品を観たのは初めてだったのだけれど、全体的に私がとても好きな感じだった。
かなりおすすめの展示。
小谷さんは1972年生まれだそうで、あれだけの造形美を生み出せてこの若さって凄いと思ってしまった。
以下にはインタビューが。

PUBLIC-IMAGE.ORG「MOTOHIKO ODANI 小谷元彦」

この展示とスカイプラネタリウムとを堪能出来て1800円は本当に安かった。

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2011/02/17

落花落葉のあと

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記憶って自分の中にあるように思っていたけれど。
実は粒子のように関連のあったそこここに散らばっているのかもしれないと思ったのは、遠い昔のほんの一時足を運んでいた場所に行く機会が最近ぽろぽろと増えているからかもしれない。

もう疾うの昔に自分から剥離してしまった記憶の断片に再会して。
ほろほろに崩れている手触りのなかからしかし確かに自分のものであったという事実を認識させられている一方で、実感の失われ具合にぽかんともする。

今でも日々何かが少しずつどこか深くに消滅してその分新しい何かが近くに派生しており、それは考え方かもしれないし習慣かもしれないし嗜好かもしれないし知識かもしれないけれど、そうして今の自分も細胞分裂のように微小な変貌を毎日毎日ちくちくちくちくとげていると思ったら何だか凝としていては勿体ないような気がしてきた。
物理的なそういう話ではないのに、ねえ。

それにしても相変わらず古い記憶を自分のものとして上手に保持できない、私。

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2011/02/12

ナマモノ感

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リサがこっそり住んでいるらしい、ポンピドゥセンター。中にははいったけれど展示は観なかった。

昔、仕事でパネルを急いでつくらないとならないことがあった。
デザインした紙をパネルに貼ってせかせかとカッターを滑らしていたら、人差し指をざっくりと切った。
慌ててティッシュを巻いて押さえたものの溢れ出す血がなかなか止まらず白い紙に血液がじゅうじゅう染みて滴った。
指は痺れていて痛いんだか熱いんだかよくわからなかった。

それ以来、包丁で野菜を切ることが以前ほど得意ではなくなってしまった。
中学生の頃に家庭科の授業の胡瓜の輪切りテストで一位だったというとーっても地味な経歴もあったのに。

感覚は肉体に宿って、感情は心に宿る。
でも双方の動き方にはとても近しいものがあるように思う。
経験した痛みに対して臆病になるところとか。

そもそも繋がっている、し。
どちらかが弱るともう一方もくるくる手を繋いでスパイラル落下。

面倒だけれどそれがナマモノというものであって、振り幅が大きい程良いことも大きい仕組み。

余談だけれど、週末に「また月曜日がきてしまう」と思うと一寸憂鬱ということのように、考えたところで何も変わらないことに関してはふっと遠くへ飛ばしてしまうことにしようと思った。

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2011/02/06

5年

部屋で一人で考えごとをしていると、色々な現実感が喪失されていく。
皆はこういう感覚にどう折り合いをつけているのだろう。
そもそも、こういう感覚を持つことはないのだろうか。
様々な柵から切り離された空間を持っているということは、ある意味幸せなのだろうか。

猫たちは私が守っていかなくちゃと思ってから約5年。
この子たちは2006年2月19日に、この家に連れてきた。

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※連れて来た日、新しい家に慣れないふたり

私が無鉄砲な行動を起こさずにすんでいるのは、本当にこの子たちのお陰だよなと思う。
この子たちがいなかったら、とりあえずパリあたりに飛んでいたような気がする。

創作したいものがある。
でもその一方で、自分とこの子たちとの生活の糧も自分で稼がないといけない。
世の中には、誰かに寄りかかっているのに一端の創作者気取りの人もいる。
でも、私は。
やりたいことがあるならば、生活の基盤も自分で築かないと一人前ではないんじゃないかと思う。
糧を稼ぐ為の仕事の中にも、無数の学びがあるし。

自分が進んでいる道があって、時にはそれを人に兎や角言われて自信を失うこともある。
でも最終的には、人にどう思われるかではなくて、自分がどうしたいかだよね。
万人が理解する幸せのかたちなんて何処にもないのだから。

私のそばにいてくれるふたり。
いつもいつもありがとう。

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