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2010年7月

2010/07/26

共振、色、世界

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※パリのどこかのレストラン

対象を目に映す。
空間を共有する。

内側に落ちてから起きる化学変化はそれぞれで違っていて。
生み出された異なる粒子を混ぜて新しい色をつくる。

そうして、世界に、色が、増える。
鮮やかで、美しい、色の粒子で、満ちる。

繋げられた世界が心地よく振動しながら無限に広がっていく。

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2010/07/21

話の話 ロシア・アニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールブソワ(神奈川県立近代美術館 葉山)

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フランチェスカ・ヤールブソワ「明るい光に向かうオオカミの子」映画によるエスキース 1985年

ロシアを代表するアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインと、その作品の多くの美術監督を務めるフランチェスカ・ヤールブソワ夫妻のこれまでで最大の展覧会。

私が初めてノルシュテイン作品を観たのは、2004年。
ラピュタ阿佐ヶ谷で観て、それ以来大好きな映像作家さん。

関連記事:ユーリー・ノルシュテイン作品(ラピュタ阿佐ヶ谷)

会場は、葉山にある神奈川県立近代美術館。
電車とバスで我が家から2時間程の距離。
造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル展 幻想の古都プラハから」以来の訪問だったのだけれど、相変わらず遠くて、音楽を聴いて現実逃避をしながら辿り着く。
美術館は海の真横で立地はとてもよいのだけれどね。
鳶が多いので、外でお弁当を食べる場合は一寸注意。

美術館入り口のところで上映会の整理券配布をしていたのだけれど、DVD持っているしまぁいいかとそこは素通りして会場へ。

展示会場にはいってすぐのところに、「ハリネズミの後を歩くミミズク」という、「霧の中のハリネズミ」の一場面を再現したマケットがあった。
木製の箱の中にガラス板が数枚はまっていて、前景から後景まで立体的に配置している展示。
それを見た瞬間に、すっぽりノルシュテイン作品の世界の中に迷い込んだような心持ちになり、感動して早くも涙が滲んだ。
私が大好きな映画をつくった人は現実に存在していて、そうして映画をつくるために描かれた絵が手の届く距離にあるのだ、という事実が、なんだかね。すごく嬉しかった。

ノルシュテイン作品の中で私が一番好きなのは「話の話」

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つぶやくような子守唄が流れ、薄暗い中にリンゴと母子が現れる。机の下にはオオカミの子がいて、赤ん坊を大きな瞳でじっと見つめる。オオカミの子は古い木造の共同住宅に住み、そこでは老婆がかまどの火をかき立てている。
共同住宅の廊下が白く輝き、その光の中で《永遠》のエピソードが描かれる。海辺で牛と少女がなわとびに興じ、男は魚を獲り妻は洗濯をし、詩人は詩作に耽り、旅人はもてなしを受ける。
《戦争》のエピソードでは、街灯の下で男女がタンゴを踊っている。戦争が始まると男たちは姿を消し、戦死の知らせが空を舞い、やがて戦争が終わると再びタンゴを踊りだす。
《日曜日》のエピソードでは、雪深い公園で 少年がカラスとリンゴを分かち合い、やがて両親と共にどこかへ立ち去る。
オオカミの子は詩人の元から紙を持ち去り、その紙は泣き叫ぶ赤ん坊になる。オオカミの子は赤ん坊を抱き上げ、森の中を彷徨い歩き、空き地で見つけた揺り籠で赤ん坊をあやす。
(図録より)

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戦中から戦後の、ノルシュテインさんの体験をベースにつくられた作品。
私とは国も時代も違うのだけれど、観ると何故だか強烈な郷愁を呼び起こす作品。
《永遠》のエピソードは、夢の中で朧げに永遠と繰り返される出来事といった感じで、終わりのないその世界に、軽い目眩を覚える。

タンゴの場面は、「灯の下のダンス」として蓄音器上に再現されていて素敵だった。

オオカミの子がいる廊下に明るい光が射す場面は、マケットでも光が溢れていて、映画の世界と会場とが溶け合っていた。

映画ではカットされてしまった場面、「小鳥の弔い」の絵の展示もあった。
子供6人が亡くなってしまった小鳥をベビーカーのようなものにのせて運ぶ場面なのだけれど、どうしてカットされたのだろう。
この場面が映像化されたところ、見てみたかった。

会場にはノルシュテインさんとヤールブソワさんが作品をつくる前段階で描いたデッサンが展示されているのだけれど、じっくり見ていると非常に面白い。
ノルシュテインさんがざくざくっと描いたデッサンのイメージを、ヤールブソワさんが見事に美しい一枚絵に仕上げているのだもの。

シュヴァンクマイエル夫妻とか市川崑監督夫妻とか。
最大の理解者が自分の配偶者である、ということは、本当に素敵なことであると思う。
夫婦の共同作業の末に生まれた素晴らしい作品。
ただの仕事上のパートナーであったら理解し得ない深いところまで、わかりあってつくっていけているのだろうなと思える、完成度の高さ。

一緒につくるのでなくてもね。
夫婦で同じ価値観の元に生活をして、そうして相手が生み出したものの良さを自分が一番深く理解してあげられるとか。その逆とか。
そういうの理想だな、と思う。
違う方向に向かってそれぞれの触手を伸ばしているようで、伸ばした結果相手が何かを得た瞬間をお互い背中でわかっているみたいな状態、素敵じゃないか。とても。

作成しはじめてから30年の月日が流れている「外套」を途中まで観られたりなど、非常に満足度の高い展示だった。
外套、いつ仕上がるのかな。
美術作品というクオリティの高さで、昨今のCGゴリゴリのアニメーションとは対極にある。
私はやっぱり手作業の温かさのある丁寧な作品、大好き。

遠かったけれど本当に行ってよかった。

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2010/07/20

光彩の溶け合い

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歩くとか。
観るとか。
聴くとか。
触れるとか。

日々変わっていくこの世界のことを
知って確認して刻んでいくその一瞬一瞬は
どれも違った色の光でどれも美しくて
連続するその光が温かく溶け合う奇跡に
毎日きちんと感謝したい。

ありがとう。

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2010/07/15

鳴らないハモニカ

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音楽を聴くのも好きだけれど、何の音も鳴らさない空間というのも好きで。
そういう場合は、しんとした外の音を耳がひろっている。

完全に無音であることなんてなくて。
雨の雫がどこかにぶつかる音であったり
風がどこかの木々の葉を揺らす音であったり
遠くで車が走る音であったり。
僅かな音が必ずどこかで鳴っている。

自分がいる空間から外へ向けて
小さな音の連なりを少しずつ辿ってひろっていくと
広い世界をなぞって認識していくかのようで
膨大で長大な空間の一点に在る自分を拠点に
世界が放射状に広がっていく。

そんな感じで、地球は広くて気持ちよいなぁとかいちいち思ったり。

離島とか、どこか。静かな海のそばにそろそろ行きたい。
ここからは海の存在に意識を沿わすことはできても
さすがに波の音は聞こえない。

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2010/07/11

古屋誠一 メモワール. (東京都写真美術館)

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写美でやっていた写真展、
古屋誠一 メモワール. 「愛の復讐、共に離れて…」
を観て来た。

古屋さんは、1970年代からヨーロッパを拠点に活動する静岡出身の写真家さん。

古屋さんは、妻であるクリスティーネをモデルとした作品を多く撮影しているのだけれど、彼女は心の病を患った末に、1985年に東ベルリンで自死している。

それ以来、彼は妻クリスティーネを撮影した写真を「メモワール」と題して20年あまりの間発表し続けている。
今回、展示のタイトルに「メモワール. 」と、ピリオドがついているのは、今回をメモワールの集大成として最後の展示にしようという意図があるそう。

写真展は、《光明》《円環》《境界》《グラビテーション》《クリスティーネ》《エピファニー》《記憶の復讐》という7つのパートで構成され、124点の作品が展示されている。
以下、パートごとの感想を。

■光明
出産したばかりの我が子を抱くクリスティーネや、眠る息子など、やさしさと明るい光に溢れた作品たち。
どこにでもある家族の光景、希望に満ちたふわふわと温かい気持ちに包まれる。

■円環
どこかあっけらかんとした動物の生と死、何かが宿っているかのような幻想的な雲、ものものしい復活祭の火、しんとした静けさのある花環など、自然界の生命循環を思わせる作品たち。
強い炎の向こうに広がる大きな闇を見ていると、生のすぐ後ろには終焉が転がっている、という当たり前のことに気付かされる。
でも飲み込まれそうで少し怖い。

■境界
墓場や東西ベルリンなど。
生と死、東と西。相対する二つのものたち。
正反対だからこそ、よりお互いの存在感を強めているような気がする。

■グラビテーション
玩具やどこか疲れた様子の動物、ベルリンの壁、刃物など。
体温が排除されたような写真ばかりで、ぞっとする。

クリスティーネ
彼女はどこか少年的な無邪気さを持ったとても美しい人。
微笑み、喜び、憂い、沈鬱、苦悶、悲しみ、無。
年代ごとの彼女の心境の変化が如実に現れた写真たち。
彼女の変化に気付きながらも、きっと古屋さんはどうしていいのかわからなかったのだろうな、と思うと、胸が痛い。

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1978年、伊豆の海の前で。
首からカメラをさげて風にブルーのスカートをはためかせながらはにかむ彼女は本当にかわいくて。
そして。
その後の自死と重ねると、居たたまれない気持ちになる。

■エピファニー
エピファニーは、「公現祭」や「主顕節」のこと。三博士が生まれたばかりのキリストへ参拝したことを記念する祝日。
稲妻や蒲公英の綿毛、書斎、東京の街並、溶けた蝋燭と花、植物、冬景色など。
何となく、エピファニーというよりは鎮魂の意味合いが強いようにとれる写真たち。
色もとても美しい。

■記憶の復讐
一部のコンタクトシートを公開。
古屋さんの目線を追うことができる、貴重な展示。
自死直前のクリスティーネの姿もある。

写真というものは、その時たしかにそこに存在したものを、撮影者の目線で切り取ったもの。
写真とは、記録であり、トリミングである。
でも、同じ写真というものは絶対に存在しなくて。
必ず撮影者の色に染まっている。

自分の目線、というものは。
普段は人に公開できないものだ。
だからこそ、写真という形で見ると、そこに込められた思いや視点を強く感じる。

彼女の気持ちが変わろうと、彼女自身の存在が消滅しようと、永遠に残り続ける写真。
そしてそれは単なる記録写真ではなくて。
その時たしかに古屋さんがファインダーを覗いて、愛情をもってクリスティーネを見ていた、という一瞬の事実がフィルムのゼラチンという煮凝りの中に閉じ込められている。

そういうことに思いを馳せながら見ると、何とも言えない重みのある展示だった。

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2010/07/08

慈雨の礎

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アートとか音楽とか
過去にたしかにそれが生まれた瞬間があって
そしてそれを生み出した人は、自分が踏みしめているのと同じ大地のどこかを踏みしめていて
遠いと思っていた存在と実は地続きである、ということ
歴史も含めて

目でなぞったり、耳に落としたりした瞬間に
それまで認識出来なかったその道筋までが光りだして
繭のようにどんどん紡がれて広がったその世界は
旱天の慈雨であればあるほど深く染みていくような気がする

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