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2010年5月

2010/05/24

瓶の底、変わる結晶

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※ケビントの中段

人でも、本でも、音楽でも、映画でも、思想でも。何でも。
何かに出会うことで
人の中身は日々変質する。
変わらないままであることなんてない。
気持ちは、いつだって、生物だ。

古くなってしまった自分自身の、一部。
剥がれ落ちる皮膚をプレパラートに載せて顕微鏡でみるような
そんな記憶の濾し方。

変わる、ということは。
絶対、ということもない、ということ。

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2010/05/23

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践 / 保苅 実

ラディカル・オーラル・ヒストリー

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践

保苅 実

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先日の記事でも書いたけれど、虹蛇の夢を見てから興味を持っていた本。

著者保苅さんは歴史学者で、オーストラリア先住民族などに関して研究されていた方。
2004年に32歳という若さで逝去されている。

この本は、オーストラリアの先住民族アボリジニの歴史にオーラル・ヒストリーの手法で接近することをテーマにしたもので、保苅さんはアボリジニ諸社会の言語グループのひとつグリンジのカントリーに位置するダグラグ村に滞在している。
そこにいる人々、主にジミー・マンガヤリという老人から聞いた「歴史」に関して綴られている。

アボリジニの人々は、時間が空間に従属するという時空概念を持っている。
ジミーじいさんをはじめとするアボリジニの彼らは、「正しい道」について著者に語る。
ジュンダガルという大蛇のドリーミング(祖先神)による西から東への道跡、それが「正しい道」
彼らはその西から東への正しい道上に位置しているし、常に正しい道を進まなければならないと思っている。

彼らにとって悪い者たちは、正しい道を進んでいない。
だから、彼らの大地を侵略した白人たちは北から来たとされている。
北から来て、正しい道を切断した。彼らは法を犯したのだ、と。
そして、白人たちの国「イングランド」は、南にあるのだと。

多くの日本人は、それを聞いて「おかしい」と思うのではないだろうか。
イングランドはオーストラリアの南になんてない、と。
「イングランドの位置」と言われて私たちが思い浮かべるのは「世界地図」であるが、アボリジニの人々がいう「位置」はそういう物理的な位置のことではないのである。
彼ら、アボリジニの人々にとって、空間や地形と論理的態度は同一の次元に位置づけられているのである。
そう言われても「?」という人は、今までの知識や考え方に則って判断することをやめて、今までものを見ていた位置の斜め上くらいから考えてみるといいのかもしれない。

この本では「歴史観」についても綴られていて、それについても考えさせられる。
私たちが教科書で習ってきた歴史。そこに書かれている歴史は、あくまで西欧の視点で歴史学者たちによって残されたもの。
でも様々な立場の人間がいる中で、全世界共通の歴史を記録することは無理だと私は思う。
人が綴った歴史は誰かしらの視点で濾されてから記録されたものであるし、そもそも記憶は変質するものであるから時には誤解や勘違いもあるであろう。そこで起こったことを完璧に記録するレコーダーでもない限り、これが正しいという一種類の歴史なんて存在しないのである。
それに、その時そこで何が起こっていたかということよりも、その出来事が関わった人々やその子孫に一体どういう影響を与えたのか、ということの方がよっぽど大切なのではないかと思う。

ジミーじいさんから教えられたこと、そして著者が考えていたことなど、この本にはたくさんの素敵なことが書かれている。

何かを本当に知ろうと思ったら、じっと留まって感覚を研ぎ澄まして世界に注意を向けることが重要であるという。
常にテレビだの音楽だのネットだの、何かを聞いたり読んだりしている私たちは、このじっと留まって世界の声を聞こうとする行為ってなかなかやらないのではないだろうか。
身体は世界を知るうえで決定的に重要な媒体」という言葉が素晴らしい。
私たちの身体は、常にその知ろうとしている世界の内側にある。
つまり、知ろうとしているその世界の一部、なのである。
その身体をおろそかにして、知ることなどできないのである。

全ては大地からくる」という考え。
異なる果物も、異なる土地も。全ては同じ大地の上にある。土のないところには何も育たない。
そんな生ける大地、大地の法に従うことが正しいとされている。

この「大地に従う」という考え方を読んで、私は「ガイア仮説(ガイア理論)」を思い出した。
これは、化学者ジェームズ・ラブロックによって1960年代に提唱された仮説で、私がこれを知って読んだのはもう10年程前。
地球をひとつの生命体(有機体)とする説で、平たく言えば地球上で起こっていることは全て地球の自己調節能力(ホメオスタシス)に基づくというもの。
この理論でいくと、例えば地球上で起こっている異常気象や災害などは、地球にとって癌となってしまった人間を減らそうと地球の自己調節能力が働いていると考えられなくもない。

で、ガイア仮説について語り出すと長くなってしまうのでそれはまた別の機会にして。
このガイア仮説による「地球を生命体」とする考え方と、アボリジニの人々による「大地の法」は共通するのではないか、と思う。
大地の声を聞いて、大地に従うこと=地球の意志 であり、それは我々が地球上で生きている限り絶対的に正しいことなのではないかと。
私たちが日々生きる為に口にいれているものたちは、この大地、地球によって育まれたものたちであるのだし、何より私たちだって地球の一部に生息する生き物に過ぎないのだから。

ここで取り上げたものはほんの一部で、私はこの本を読んで本当にたくさんのことを考えさせられた。
そもそも、たった一読では理解できているとは言えないくらい内容が濃いので、これから先何度でも読み返したいと思う本。
アボリジニの人々の生き方には私たちが忘れていた物事の本質が眠っているので読んでいるだけで沢山のことに気付かされるし、従来の歴史学というものを根底から覆すような問いかけにははっとさせられる。何より保苅さんの彼らに対する愛情と信頼が全編に行き渡っていてとても心地よい。
これが英文による博士論文を書き上げた後、病によるあと二ヶ月との余命宣告を受けてからつくられた本であるということに、私は驚きを隠せない。
それと同時に、これだけ優れた方がたった32歳という若さでこの世を去ってしまったことが残念でならない。

保苅さんの公式サイト「Being Connected with HOKARI MINORU」には、ニュースの他学生時代に書かれたコラムや新聞での連載など読み応えのある様々なコンテンツがある。
今は北海道で写真展を開催中だそうで、是非東京でも開催して欲しいなと思う。

自分がみた奇妙な夢がきっかけで知った本。
ジミーじいさんの言い方でいうならば、「大地がお前を呼んだんだよ」ということなのかな。
アボリジニの人々は、私たちの言葉で言えばいわゆるスピリチュアル的な考え方をする人たちである。
車が動かなければ、それは大地が動くなと言っているからであると考える。
洪水が起これば、それは虹蛇に頼んで起こしてもらったのだと答える。
そういう考え方に、抵抗がある人はいるのかもしれない。
でも、本来私たちは様々なものに自然と導かれて生きているのではないだろうか。
利便性を追求するあまりに目が曇ってしまい、大地の声を聞けなくなってしまった私たちが忘れてしまった、道。そこを辿るということ。
そして、「歴史」がただ教科書の中に変わらず存在し続ける過去の遺物ではないということ。

自分が持っている意識とか知識とか。
そういうものの形が根底から変わってしまうような貴重な本との出会いってとても少ないのだけれど、この本はそのひとつ。
あとは、サックス博士の本とかね。

私は、思う。
この本に出会うために夢に導かれたのだと。
そう思いたいくらい、心を揺さぶる非常に面白い本だった。

ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践、本の詳細はこちら

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2010/05/21

瓶に挿した薔薇の水

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※ケビントの中の薔薇

堕ちてくる言葉とか、欠片とか発想を。
瓶の底に閉じ込めて。
ソーダ水のようにぷつぷつと生まれるまで。
たまに、取り留めもない落書き。

通り過ぎ行くそれらのものを
あまり自分の内に持続出来ないようなので
最近は、なるべく手帳にメモをとるようにしている。
以前の記事でも触れた、「ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」を読んでいた時は、響く言葉だらけで。
勉強でもしているかのように、メモをとりっぱなしだった。
ここに感想をあげようと思いつつ、しっかりと書きたいとおもうばかりになかなか手をつけられないでいるのだけれど。

最近、勉強したいとか、新しい事を知りたいという欲求が強まっている。
この地球上にある知識の中で、私が知っていることなんて針の穴のように小さな小さな範囲。
ひとつの何かを知った時。
まるでドミノが倒れるように、何かの可能性が広がって行く。
予想もしていない方向に倒れて、何かと何かが繋がったりもする。

些末なことを気にする暇があるのならば
1文字でも多くの活字を読んだ方がいいなぁと思う。
と言いながら、
珈琲やらお酒やらを飲んでゆるゆるしていることも多いのだけれど。
まぁ、じくじくと自分の内の傷を気にする類いの行為よりはずっとまし。

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2010/05/15

暗闇の獅子舞

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大國魂神社「くらやみ祭り」の山車。
かつては、街灯を全て消した真っ暗闇の中で行われていたそう。「貴いものを見ることは許されない」という古来の儀礼に起因した伝統だったのだとか。

山車は大通りを何台も行き来していて、それぞれ乗っているものが違う。
これは獅子舞で、その他おかめ、ひょっとこ、天狐などがいる。
獅子舞の後ろでは笛と太鼓でずっと祭り囃子が奏でられている。
山車の後方には明かりで透けた簾越しに、交替要員なのか子供たちが乗っているのが見える。
その簾の様子に、平安時代の牛車(ぎっしゃ)を思い出す。

夜の闇の中を、提灯を沢山下げた山車が御囃子とともに巡行するというのは非常に風情がある。
怪しく照らされた獅子舞が敏捷に踊る様には何とも言えないかっこよさがあった。
お正月の呑気で愉快な獅子舞とはひと味違う。
「ダンスやります」という人は多いけれど、「獅子舞踊れます」という人はなかなかいないわね。それも、笑いをとる踊りではなくて、こちらが見入ってしまうような獅子舞ね。
どこで教えてくれるのでしょうね、獅子舞の踊り方。

こういう場にいると、日本の古来からある文化であったり風習であったりの美しさや繊細さに感嘆する。

お祭りに限らず、私は古い時代の美しいものが大好きで。
でもそれっていつからで、そしてどうしてなんだっけ?と考えてもわからない。
うちの両親は特にそういうものを愛でるタイプでもない。
実家を出て、自分の好きなインテリアを集めたりしはじめてみたら、自分の好みがわかってきた、という感じだったかな・・・。
今の街に住んだきっかけもそこにある。
アンティークのお店が多いらしいな、と気になって来てみたら、降り立った瞬間に「ここに住みたい」と思ったのでした。空気の肌馴染みの良さと直感で。

古き良き美しいものを、守ったり、甦らせたり。
どんどん、日本が美しいもので溢れると良いな。

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2010/05/11

珈琲と

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珈琲に毎日解かれている。

ドリッパーは赤いKONOを愛用中なのだけれど、このドリッパー比較を見るとバネットも気になると思いつつ、多分3年くらい。

会社ではドリップできないので、香味焙煎を丁寧にいれる。
インスタント珈琲でもちゃんといれるとそれなりに美味しくなる。

--インスタントでも美味しいいれ方--

1. カップに適量の粉末を入れ、ごく少量のお湯で練るようにとく。

2. 1に適量(量重要)のお湯をゆっくりと注ぎ、気持ちを込めて丁寧に丁寧に丁寧に美味しくなれと念じながらかき混ぜる(これも重要)。

3. 出来上がり。

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「珈琲」で検索すると、コメダ珈琲店が常に1位2位につけている事実。
ああ。
逢いに行くわ 汽車に乗って。
待っててね、シロノワール、な心境。

KYOTO」すごく好きだったな。
イロトリドリノセカイ」とかも。
懐かしい。

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2010/05/06

金太郎飴ぽこぽこ

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根津の金太郎飴屋さんで購入。
ミルキー的なソフトさと優しい甘さで美味。
もっと固くて甘いのかと思った。
たまに潰れてすごい面白い顔になった金太郎さんがいる。
先日職場で配ったら、「え、なにこれ怖い」と人気者。
ふ。

子供の頃、それこそ3歳くらいの時分。
金太郎飴が、どうして切っても切っても同じ顔なのか不思議だった。
なるとも蒲鉾も切ったことがない3歳児、想像力の域を越えていた。
予め、たくさんの顔をつくって、全部くっつけた?
でも、切る場所を間違えたら?
???

考えて、考えて。
ああそうか、黒いところは長い黒い棒状で。
ピンクのところも長い長い棒状で。
そうなっていたら切っても切っても同じなんだ!と。
衝撃の真理に行き着く3歳児。
得意げに2つ上の兄に解説したら
「そんなの当たり前だよ、知ってるよ」
みたいなコメントをされ、ショックを受ける3歳児。
いや、実際問題兄はわかっていたのかね。
わかっていなかったかもしれないわよ。
今となっては事の真偽は確かめようがないけれど。

自分至上、最も若い記憶ってなんだろう。
幼き日の記憶は、
朧げな光の向こうに連続性を持たぬ欠片で存在しているものの
どれが一番始めなのかは皆目わからない。

食卓で、母から右と左を教わっているところ。
「お箸とかスプーンを持つ手があるほうが右で、逆は左よ」
そう教わってから、暫く左右を確認する時はその場面を思い出していた。
や。左右がぱっとわからない時代があっただなんてね、新鮮。

居間で、母から「生まれて来る前は何処にいたの?」と聞かれ
「お空の雲の上でね、雲の隙間からお母さんを見ていたの」と答えたところ。
その時の、お空の上におけるビジュアルも何となく覚えている。

私もいつの日か子供が生まれたら、生まれる前のことを聞いてみよう。
ちなみに、3歳までがチャンスらしい。
ほんと?

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2010/05/02

厠の兵隊/劇団桟敷童子(すみだパークスタジオ)

Kawaya

先日、劇団桟敷童子の「厠の兵隊」を観てきた。
すみだパークスタジオ「倉」のこけら落し公演。

この劇団の舞台を観るのは初。
友人がこの劇団を好きで、アングラ系劇団だからきっと好きだよと言われ連れて行かれたのでした。
ちなみに寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」と名前が似ているけれど関係あるのかな、ないか。
かなり人気のある劇団で、小劇団のわりには大きな会場で満席だった。全日完売だったらしい。

舞台は、セットがもの凄くつくりこまれていて、とりあえずそれだけでも圧巻。
会場中に巻かれた鮮やかな紅葉。
舞台の家や厠やトンネルなどもとてもリアルで、人々が渡れるちゃんとした木製の橋があったり、ライトが点いて人が何人も乗れる車が登場したり。
全部役者さんたちでつくっているらしい。
ここまでセットに凝る小劇団ってなかなかないのでは。

母子が、亡くなった夫の故郷の村に来る。
土俗的な風習がまだ色濃く残る村で、汲取式便所など設定は昭和初期。
そこで3人の人間が変死し、透は行方不明となるが・・・という話。

息子の透が玩具のトランシーバーで誰かと通信していたり
謎のけちんばやさんが登場したり
村独自の奇妙な風習があったり
目のまわりが真っ黒で嫌なことばかり言う気味の悪い叔母二人組がいたり
夫の兄は骨がぐしゅぐしゅで痛いと言って苦しんでいたり
自殺願望のあるカップルがいたり
母・月子に近寄る男は皆変死したりと
全体的に暗くてどこか奇妙な設定。
でも、その暗さであったり、シュールさであったりがツボだった。
そして、ただ暗いだけではなくて、笑える場面もある。

この村では、子供は7歳までは半分は神様だという。
純粋でかわいいと思われていた子供が母を愛するあまりに駆られてしまった狂気。
妄想の兵隊、そして旅立ち。

透を演じているのは、烏山茜さんという背の低い女性で、この人の存在感が凄かった。
その他、月子役の板垣桃子さんや与市役の池下重大さんをはじめ、役者さんのレベルが高い。
熱のこもった演技で、ぐいぐい引き込まれた。

桟敷童子の舞台は、毎回必ず最後に大仕掛けがあるらしいのだけれど、本当に驚いた。
最後の最後にリアルな巨大戦車が登場・・・。
あれも劇団員の手作りなのだものね。

暫く余韻に浸ってぼーっとしてしまった。
ああいう世界観好きだ、面白かった。

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リアル感電!!(川崎市アートセンター アルテリオ小劇場)

Rkd

先日、ホナガヨウコさん企画の「リアル感電!!」を観てきた。
もともとは、音楽を担当しているd.v.dが好きで興味をもった舞台。

d.v.dはそもそもドラムデュオと映像作家さんでなるトリオで、ドラムやキーボードの音に合わせて、映像がくるくる変化するという手法をとっている。
今回はそこに踊りが加わり、動きに合わせて映像が変化したり、音が鳴ったりとさらに面白いことになっていた。
TENORI-ONも使われていた。

この、音とダンスのセッションをホナガヨウコさんは「音体パフォーマンス」と言っている。
ダンサーは担当楽器が身体というバンドのメンバーの一人として。
そしてミュージシャンも演者の一人として。
音と身体が対等な関係の舞台芸術。

出演者はただ踊るのではなく、台詞があったり、動きがあったり、一寸したストーリーがある。
場面場面で中心に立つ人がおり、その人から物語が派生する。
孤独、抑圧、痛み、片思い、交流、愛、などなど。

弾かれたように踊る。
ただ踊るだけではなくて、そこには意志がある。
叫ぶ。
鳴る。
映る。
変わる。

身体表現。
私自身は、描くとか書くとかで表現をするタイプなので
身体による表現というのは、自分で出来ない分とても興味がある。

リズミカルに跳ねる。
動く。
止まる。
動きに内包される感情。

一人一人違うカラフルな衣装がとてもかわいくて
出演している女性もとてもかわいかった。
男性はかわいい衣装で力強く踊っていた。

踊りと音楽と映像がとてもテンポよく
カラフルな衣装と幾何学的な映像の相性もよくて
その流れにのっているうちにあっという間に終わってしまった。

ダンスも映像もd.v.dも観たいという欲張りな私は、あっちを観たりこっちを観たりと少し忙しかったのだけれど、たしかにあれはただの音楽でも踊りでも なくて。
踊りと音と映像が合わさって表現をする「舞台芸術」になっていた。

身体を目一杯つかって
踊りたい、飛び跳ねたい。
弾けたい。
そういう衝動にかられた。
というか、観ている最中に既にd.v.dの音に合わせて踊りたかったけれど、ライブではないので皆椅子に座ってじーっと観ているのでこらえた・・・。

踊るっていい。
身体を使うっていい。
つくづくそう思った舞台。

過去には「にせんねんもんだい」ともやったらしい。
あの音とのコラボ、どんな感じだったのだろう。
それも観たかった・・・。

下記は公演のCM。

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