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2010年3月

2010/03/22

「命の認識」展(東京大学総合研究博物館)

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先日、「命の認識」展へ行ってきた。

苦悩の部屋へ、ようこそ

そんな言葉で紹介される、この展示。
昨今の、ただ快楽の為の場に成り下がった博物館展示を破壊し、命を認識するための根源的苦悩の場を広げることを目的としている。

場所は、東京大学内の「東京大学総合研究博物館」である。
東大本郷キャンパス敷地内をお散歩がてらぷらぷらした後、展示へ。

会場では「キュラトリアル・グラフィティ—学術標本の表現」展が先にあり、日本の古人骨の展示がされている。
縄文から江戸時代までの頭蓋骨の変化であったり、骨から情報を読み取る方法であったり。
前者は、眉間や鼻骨の隆起であったり、頭蓋骨の縦横比であったりが顕著に変化していく様がよくわかって興味深かった。

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「命の認識」展は、一番奥の部屋で行われている。

部屋にはいってまず目にするのが、液体に浸かる子象の死体。
死産してしまったアジアゾウなのだそう。
近寄って見ると、この子はうっすらと目を開けている。
この世界の美しいものを何も映すことがないまま、濁ってしまったその目。
「見る」ことはできなかったのに、こうして沢山の人間に「見られる」だなんて。
この子の魂は、このことをどう思っているのだろう?
静かに土の下で眠って、そうして溶けて地球の一部になりたい、そうは思っていないのだろうか?

この子象の痛々しい展示は、軽々しく堕胎を考える親たちへの警鐘ともなり得る気がする。

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場内では、広い展示スペースに無数の骨、が。
ただただ置かれている。
一般の博物館などと明確に違うのは、プレートや説明文の類いが一切ないこと。
ただ、「どうしても知りたい方の為に」と、会場の隅に印刷物が置いてあり、一部は何の骨なのか説明されている。

他と桁違いに巨大な骨は鯨なのだそう。

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骨と骨の間に、小さな魚の骨まであったりする。

その他、鶏の原種赤色野鶏や、解剖の為に皮を剥がれた死産した子キリン、冷凍庫にいれられた解剖待ちの動物などが展示されている。
赤色野鶏なん て、皮と羽だけが残されているので、身体には綿が詰められ、それがくちばしがあるべき部分からはみ出していたりする。まるで物だ。
子キリンは肉が剥き出しだし、解剖待ちの動物たちはお肉屋さんの食材のようでもある。

また、解剖に使う道具も並べられている。
大工道具のような無骨なそれら。

会場の壁をぐるりと囲むのは、モノクロの骨の写真。

生を知る為の、死。
命ある者よりも、死してしまった者の方が圧倒的に多いこの空間。

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会場内に、丁度猫サイズの骨を発見した。
猫、なのだろうか。
違う動物かもしれないのだけれど、印刷物では触れられていないエリアだったのでわからず。

以前、オランダに行った時に、「猫の博物館(kattenkabinet)」へ寄った。
猫に関する美術品を展示している其処は、館内に飼い猫がごろごろしているような長閑な場所。
けれど、展示の最後の方に「猫の毛皮」があって、鳥肌がたってしまった。
あの、お金持ちの家にありそうな、顔つきの虎の毛皮ってあるけれど、あれの猫版・・・。
これをつくった人は何て趣味が悪いのだろう。

ちなみに私は、フェイクファーは平気だけれど、猫を飼ってからというもの、ふさふさとしたリアルファーが駄目になってしまった。
だから、学生時代にパリで買った古着の毛皮のコートは全て捨ててしまった。
人間のファッションの為に命を奪われた子たちが、沢山、いるという事実。

そういえば先日観た「医学と芸術展」では、フェイクレザーの製造過程を展示した作品があった。
最近、「医学と芸術展」 →「解剖学の本」という流れできていたので、この展示に対してより理解が深まった気がする。

この展示を観て思ったのは。
私たち人間も、他の動物も。
皮と肉を剥いでしまえば、その内にあるのは似たような骨であるということ。
本当に不思議なくらい、皆構成が一緒なのだ。
大きさや一寸した比率が違うだけ。
皆まあるい頭蓋骨があり、眼窟が空き、顎には歯がある。
その位置だって、大きく違わない。
例えば、口が額についている子なんていないし、眼窟が後頭部にある子だっていない。
似たような頭蓋骨の下には身体があり、手足があるのだ。

こんなにも近しい生物なのに、人は。人間様は。
食物連鎖のトップに位置して、角だ皮だ肉だと。
自分たちの欲の為に生物の命を絶っている。
それは、本当に必要なこと?
原始の人々、が。
日々生きる為に命をいただいていたことと、飽食の世にある私たちの行為とは。
似ているようで全く違うのでは?

以前、「いのちの食べかた」という映画を観た。
「命をいただく」という行為を。
オートメーション化して効率的にしている私たち人間の醜い姿が其処にあった。
口にしている「肉」には、もともと命があったのだということを。
例えばフライドチキンを食べている人の何割が認識しているだろうか。
自らの手で奪わなかった命であれば、関係のないことであろうか?

そうして。
この展示室を何度も何度もぐるぐると廻って。
私が思ったのは。
こうして他の生物の死体や骨を整然と展示する生物なんて。
人間様しかいない、ということ。
なんだろう、この、違和感。

こうした研究が医学にも生かされてその恩恵を私も受けているはずなのに。
拭いきれない違和感の塊、石、が。
胸の奥に落ちたまま。
そうして私はあれから、お肉やお魚が食べられないでいる。
乳製品や卵は食べられるし、例えば魚であれば練り物のように姿を変えているものは口に運べるのだけれど。
お肉やお魚の姿が残ったものは、駄目だ。

「いのちの食べ方」を観た後も。
なんだかんだお肉やお魚を食べているので、時間が経ったら食べてしまうのだろうけれど。
でもまだお肉の塊に、展示してあった皮を剥がれたキリンの子を重ねてしまう。

そういえば、この展示を見ながら談笑して茶化しているカップルがいた。
受け取り方は個人の自由だけれど、笑えるんだ、茶化せるんだ、と。一寸驚いた。
おじいちゃんと一緒に来ていた小さな子供の方が、ずっと真摯に受け止めていたよ。
ああいう茶化すような人たちには、この展示が否定している娯楽主義のファッション的な展示の方が似合っている。

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2010/03/17

思考のメリーゴーランド

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昨年の今頃、大好きな生まれ月なのに私は泣いてばかりいた。
じわじわと弱って、自分らしい歩き方を見失って。
ぽっかりと空いた穴に吸い込まれてしまったようだった。

一年、経って。
振り返ってみると。
私は一年分きちんと前に進んでいた。
時折立ち止まって、涙を流すことはあっても。
私はちゃんと足を前に出していたのだ。

状況、ではなくて。
自分の考え方で。
人生は色を変える。

今も、ふとした拍子に穴に吸い込まれることもある。
でも、その穴の底でぎゅっと身を縮めたままいじけたりしたくない。

辛い辛いと嘆くことも
好きなものを吸収することや何かを考えること、生み出すことも
等しく時間が流れるのだから
前者のために割くなんて勿体ない。
限られた死ぬまでの時間は。
好きなこと、で。
満たすべきなのだ。

くるくると巡る、一年。
春夏秋冬、素敵な四季を過ぎて。
来年の私のために。
十年後の私のために。
今を、もっともっと充実させよう。

学ぶこと。
つくること。
言葉に色をつけること。
あらゆることに感謝をすること。

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2010/03/14

解剖学教室へようこそ / 養老 孟司

解剖学教室へようこそ

解剖学教室へようこそ
養老 孟司

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医学と芸術展」へ行った時に購入した本。
解剖学を学ぼうという人向けではなく、解剖学とは何ぞや?という我々素人に向けて書かれた本。

解剖の歴史から、現在行われている解剖や細胞と分子の話、果ては死とは?という哲学的テーマまで語られている。

養老さんの、ノリツッコミ的な語り口が独特で面白く、難しい内容だけれどスラスラと読めてしまう。

ヴェサリウスの骸骨01 ヴェサリウスの骸骨02

それにしても。
ヴェサリウスが出した解剖図「ファブリカ“De humani corporis fabrica” (人体の構造について)」の見事なこと。
それまでの解剖学の知識を一冊にまとめただけではなく、こんな風にリアルな骸骨がポーズをとっている、アートとも言えるような解剖書などそもそもそれまでにはなかったらしい。
そんな本を29歳の若さでつくってしまったというのだから・・・。
そして、これが近代解剖学の幕開けなのだという。

思考ばかりを優先させていると、自分の肉体の認識というものがおろそかになってしまうものだけれど。
でも、私たちがこうして生きていられるのは肉体があってこそのもの。
普段意識することのない細胞単位まで視点をぐーっと絞って色々考えてみるのも面白いものだなと思った。
細胞において起こっていることに、案外私たちの生活との共通点があったりもするのだ。
人体はどうしてこうもうまく複雑にできているのでしょうね。
ただのタンパク質の塊ではなく、私たちが日々思考できることの不思議。

解剖学教室へようこその詳細はこちら

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2010/03/03

医学と芸術展(森美術館)

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先日、森美術館でやっていた「医学と芸術展」に行って来た。

私はそもそも人形(ひとがた)とか医療器具とかが好きなので絶対に好きな展示だと思って行ったら、本当にどこまでもツボな展示だった。 
古い象牙の人体模型、妊娠している妊婦の断面図を描いた古い絵画、ブラザーズ・クエイのシュヴァンクマイエルっぽいざわざわとした映像作品、義眼や義手や義足、遺伝子操作で歪められた兎、松井冬子の少女の絵、ダ・ヴィンチの頭蓋骨のスケッチ・・・。

医学というのは、私たちの肉体において欠落していく何かを埋める為の手段。
そして肉体にあるのは外界と自分との境目を定める皮膚。
その内で沈黙を守りながら眠る臓器と骨。
この要素で私は暫く哲学出来ちゃいそう。

誰もがあまり差のない骨の上を肉やら皮膚やらが埋めて個性を出す、ということは。
私たちを日々取り囲む物事と本質はきっと一緒。
私たちは日常に肉付けをしながら生きている。

図録の濃さも申し分なくて暫く浸れそうで、本当に行ってよかった。
養老孟司の解剖学の本も買ってしまった。
昔は解剖を見ることはエンタテイメントの一種でもあったようだけれどそれは人が本来持っている残忍性のせい?
何故、見たいのだろう。

*

医学と芸術点絡みの落書きを描いた。
ペンを無心に走らせる、という行為は。
私にとってストレス解消。

髑髏01
髑髏02
義手

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