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2009年5月

2009/05/31

切って千切ってまぶしつける

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※パリのどこか 多分バスティーユの職人街の方

ビルに切り取られた空でアルファベットをつくちゃった人がいた、そういえば。

外側が実体か、内側が実体かみたいな話は、小川洋子さんの「揚羽蝶が壊れる時」を思い出す。(完璧な病室に収録)

自分がいるその形の分だけ、そこには空気がない。
自分がそこに在る、ということは、何もしなくても某かの影響を周囲に与えているということで。
小さくたつさざ波、波紋、それの連続。

最近、プライベートの創作に力をいれはじめているのと平行して、仕事の方も忙しくなってきてしまった。
平日は、仕事のことと創作のことと、両方の考えないといけない事に両端からひっぱられて千切れてしまいそうな心持ちになっていたのだけれど、私のおかれている大変さなんて、広い世の中からみたら甘い甘い状況だよな、と思ったら平気な気がしてきた。
大変な時は俯瞰すると、大概は大丈夫だ。
そもそも自分で勝手に飛び込んでいるのだし。

自分で変えられるその状況を変えずに悲観しているとしたら、それは単なる怠慢だし何だか時間が勿体ない。
茫洋とした思考に身を任せているうちに、あっという間に時は流れてしまう。
刻んで、刻んで、楔を打って。
色と形と意味を与えていかないと、ゆらゆらと透明で実体がないまま消えてしまうもの。

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2009/05/25

旅、懐かしさ

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※パリ、カルチェ・ラタンのホテルの中

海外旅行をする夢をみた。
正確には行ってはいなくて、待ち合わせの空港までしか登場しない。
空港で母親が待っている。
でも、夢の中の私は明らかに待ち合わせ時間に間に合わないことに気付いて、夢の中で時間を30分、1時間と戻す。
夢の中でこういうシチュエーションで「時間を戻す」という行為を私は今までにも何度もやったことがあるのだけれど、以前誰かに話したら「夢の中でそんなこと出来るの?」と言われた。あれ、みんなやったことないんだろか。困ったな〜という展開の時にそこを抜け出すこともやらない?

身体があまり強くないうちの母親は、海外旅行になんてまず行きたがらない。
だから、絶対にないことなのだけれど、母と娘2人の海外旅行を一寸想像してしまった。
機内では英語のわからない母親が困らないように色々世話をやいてあげよう、とか。

色々な事が片付いたら、ぷらっと旅行に行きたい。

ないとさんの「コーヒーアンドシガレット」には、
電車でぷらっと30分の距離にある素敵なクラシカルホテルへの小旅行とか
何度も来ているパリ旅行とか
私が好きな空気をもつ旅の話がでてくる。

地下鉄のにおい、青いカルネ、鉄輪きしむ音、またパリに来た。

カメラをぶら下げて散歩。
あてもなく路線バス。
ペンキ塗り立ての窓際のホテル。
10ユーロほどの衝動買い。

暮れない夏の夜。
にぎわうカフェで。
コーヒーアンドシガレット。

そういえば、私は寒くて夜が早い冬のパリしかまだ知らない。
でもこの調子だと、また次回訪れる時も寒い時期のような気がしてしまう。

パリほど遠くなくても、
ひんやりとしたよそゆきのシーツのある、ほんの少しだけ遠い場所へ行きたい。

旅から戻ると
その街の夢を見る。

言葉もわからないような街なのに
懐かしく、幸せな気持ちになる。

コーヒーアンドシガレット

コーヒーアンドシガレット
やまだ ないと

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2009/05/24

映画「重力ピエロ」(ヒューマントラストシネマ渋谷)

重力ピエロ

「重力ピエロ」

監督:森淳一
俳優: 加瀬亮、岡田将生、小日向文世、鈴木京香、渡部篤郎、吉高由里子

映画「重力ピエロ」の初日舞台挨拶に行って来た。

伊坂幸太郎の同名ベストセラー作品を映画化したもの。

大学院で遺伝子の研究をする兄の泉水と、落書き消しのアルバイトをする弟の春。
2人は、近所で起こる連続放火事件と、現場近くに描かれているグラフィティアートの関連性に気付く。グラフィティアートのメッセージと遺伝子配列とのリンク。犯人は一体どんな意味を込めているのか?2人は放火犯探しをはじめるという話。

春が、二階から落ちてきた。

この言葉で映画は幕を開ける。
はじめ泉水が桜の花びらを見ていたので、季節のことかと思ったら、弟のことだった。
多分、小説のままの言い回しなのだろうけれど、ぐっと物語の中に引き込む強さのある言葉。

CMからは、グラフィティアートと遺伝子配列の関係性など、「謎解き」の映画のような印象を受けるかもしれないけれど、実際は家族愛をメインに描いた作品。なので謎解きを期待して行くと少々拍子抜けかもしれない。

「重力ピエロ」というタイトルに込められた意味、父親が言う「最強の家族」という言葉。
下手すると陳腐に転んでしまうような内容なのだけれど、あたたかい空気のもとうまく描けていると思う。
何より、配役がいい。全員はまっていた。主役2人の子供時代も、2人にそっくりだし・・・。
全体的にわかりやすい映画なので、万人受けするのでは。

世の中には血の繋がりを絶対視する人というのもいるけれど、私は以前からそう思っていない。
たしかに血が繋がっていたほうが遺伝子レベルでの「共通点」はあるけれど、人というのはその「身体」のみで存在しているわけではなくて。
共に寄り添って生きて行くその行程が家族の形をつくり、色を与え、思い出を共有し。そうしてずっと育てていくものであって、それがどんな形に育つのかは家族次第で。
そうしてそれは、生まれながらに遺伝子によって決められているものではないと思うから。

「顔が似ているな」よりも「仕草が似ているな」の方が、家族として何だか嬉しいと思う。

映画化不可能と言われていた作品だけれど、どこらへんを工夫したのか原作を読んでいない私にはわからず・・・。
原作「重力ピエロ」の方も近々読んでみたい。
伊坂さんの作品は「アヒルと鴨のコインロッカー」しか読んだ事がないけれど、面白かったので「重力ピエロ」にも期待。「アヒル・・・」の方は逆に映画を観そびれていたので、もし行けたらヒューマントラストシネマでやっているうちに行こう・・・。映画「重力ピエロ」の半券を持っていくと割引らしい。

肝心の舞台挨拶は、前から四列目の好位置で見られてよかった。
でも特に誰のファンっていうわけでもなく、一緒に行った子が舞台挨拶観に行こうというので行ってみた・・・という感じなのだけれど。もっとも、ファンでなくても、映画撮影に関するエピソードが色々聞けるのは面白いし、お客さんの高揚感とかお祭りっぽくて楽しいのでいいなと思う。

ちなみに、映画「重力ピエロ」は、原作本持参割引キャンペーン(商品の説明のところに詳細あり)をやっていて一般で200円割引になるようなので、原作本を持っている人は忘れずに。全国規模の映画で初の試みなのだとか。

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猫の寝具

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※そういえばうちの子に後ろ姿が一寸似ている。

無印良品のファミリーセール割引券をもらった。
どこの店舗でも全商品が10〜20%OFFで購入出来て、しかも期間中なら何度でも使える。
なので、今日さっそく新調したかった寝具を中心にざくざく買って来た。
無印って、行くとついついあれもこれもと欲しくなる。
期間中にまた行こう。

まっさらなシーツというのは、旅先のようで嬉しい。
でも、新調したシーツに真っ先に寝そべったのは私ではなくてうちの猫だったけど。

「猫も枕使うんだよ」って言うと、猫を飼った事が無い人は大抵驚く。
鞄だったり、自分の腕だったり、もう一匹の猫だったり、人間の身体だったり、段差があれば何でも使う。
二匹のうち一匹のお気に入りは私が使っている枕。
壁と枕の隙間に身体を滑り込ませて、枕に斜めにもたれていたり、顎だけのっけていたり。
低反発は猫にも気持ち良いのかしら。

気付けば大雨。
家にいる時の雨は、街がさっぱりするから好き。

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2009/05/18

ベジとドナとアルチンボルド

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最近気になるサントリーの「I  love  vegi」っていう野菜ジュースのCMにでてくる野菜人間。
あれってやっぱりアルチンボルドのぱくりなんだろうか。
初めて見た時、素で「あ、アルチンボルド」と呟いてしまった。

アルチンボルドというのは、イタリア・ミラノ出身の画家で、野菜や果物、植物を組み合わせて緻密に描かれた肖像画が有名。騙し絵のようにも見える。
パリに行った時にリュクサンブール美術館でちょうどアルチンボルド展をやっていて、その時に果物や野菜の模型を組み合わせて立体的に作品を再現したものも展示されていたのだけれど、野菜人間はそれに雰囲気がよく似ている。

WEB限定で公開されている「わたしとベジの物語」はシュールで結構好き。

「ねえ。私たちって人からどう見えるのかな?」
「ぼくは野菜で君は人間だろうね」
「じゃぁ手をつなぎましょ。きっと恋人に見えるわ」

・・・野菜にも恋人にも見えないと思うけれど(野菜の化け物にしか・・・)
なんだかかわいい話。
ただ、巷では、野菜人間のベジが気持ち悪がられているよう。
私も基本的にぶつぶつとかつぶつぶが苦手なので、野菜でぼこぼこ構成されたベジの顔はやや苦手。
でもドナが爽やかですごくかわいいから、ある意味バランスがとれているとは思うのだけど。
やっぱり、ドナがお腹を空かせたら、アンパンマンのごとく「僕の顔をお食べ」って差し出してしまうのだろうか。

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2009/05/17

白い紙 / シリン・ネザマフィ

文學界

白い紙
シリン・ネザマフィ

第108回文學界新人賞受賞作

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前回の記事で書いた、イラン人のシリン・ネザマフィさんによる作品「白い紙」
イラン・イラク戦争時の男女の淡い恋愛を描いている。

母語ではない日本語で書いている為、ところどころ日本語の表現にかたさがあったり、誤っている部分もあるものの、下手な日本人よりもよっぽど文章が上手いと思う。

作品自体は、若い男女が戦争という環境によって引き裂かれてしまうという悲恋話で、古典的であると思う。でも最近の新人賞受賞作には新しさばかりを狙うあまり、土台がぐにゃぐにゃしている作品が多かったりもするので、何となく安心する誠実さを持っているという点で好感が持てる。

男女が公の場で言葉を交わすことさえもタブーとされている地域での話なので、主人公と主人公が思いを寄せるハサンとの距離感、コミュニケーションのとり方などに新鮮味がある。デートが、距離をおいて一緒に歩いて向かうモスクへの礼拝だったりするのだ。現代日本の若者の恋愛とは大違いだが、戦時中の日本の様子に近いのかもしれない。
作中にでてきた、モスクで配られる「ハルワ(ハルヴァ)」が食べてみたくなった。「ハルヴァ」で検索してみたら、結構このお菓子の美味しさに魅せられてしまった人がいるようである。うう、食べたい・・・。

行った事がない場所、異文化圏での話なのに、きちんとその情景を思い描きながら読めるのは、彼女の描写力が確かだからなのだと思う。ただただ自意識が垂れ流されるような作品とは違い、作者が作品との間に明確な線引きを行い、客観的に描けている。だから、小説を読んだというよりも、何となく映画を観たという感覚に近い。

イラン人の方が書いたとは思えない、よくできた作品。
ただ読後の印象が薄くて、「優等生的な無難な作品」という感想を持った。

「文學界6月号」書籍の詳細はこちら

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2009/05/15

言葉で

Tokyotower

昨日、文學界 6月号を購入したので通勤中に読んでいるのだけれど、今回の新人賞を受賞したのがイラン人のシリン・ネザマフィさんだった。

「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した楊逸さんといい、母語じゃない言葉で小説を書く人って最近増えてきているのだろうか。

日本語を習得してさらにそれを小説という形に吐き出せるレベルまで高めるって、どれだけの努力を要するのだろう。
英語少々、フランス語ちょっぴり、な私からしたら、かなり驚異的なこと。海外に行く度に、言いたい事を言えないもどかしさから、帰ったら絶対に語学の勉強をするぞ!なんて息巻くくせに全くやらないし・・・。NHKの英会話講座くらい、欠かさず見たらいいのに。
フランス語のポッドキャストも、もう久しく聴いていない。
最近通勤中に聴くといえば音楽ばかり。今はエレカシの「ネバーエンディングストーリー」がなんだか頭に残っている。

シリン・ネザマフィさんの「白い紙」読了したら感想書きます。
そういえば、「時が滲む朝」の感想ずっと書き忘れていた・・・。
こうやって書きそびれていいる本がありすぎて、そうして書かないまま印象が薄れていってしまうのは何だか切ない。

隣席の人から風邪をもらったのか、頭がぼんやり。
思考と言葉が循環する何かに栓をしたみたいな。

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2009/05/14

フレンチ「ル・ボン・ヴィボン (Le Bon Vivant)」(吉祥寺)

だいぶ前だけれど・・・誕生日のお祝いで吉祥寺の「ル・ボン・ヴィボン」へ。
ザガットでも高評価だったお店らしい。

5000円、6500円、8000円のコースだったので、6500円のコースを注文。

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前菜

魚介のゼリー寄せ冷たいパプリカのソース。
ソースがガスパチョっぽく、さっぱりとして魚介によく合う。

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子牛の胸腺とエビの炒め物サラダ仕立て。
胸腺はむちむちして美味しい。
炒め方はフレンチというより、家庭的なやさしいかんじ。

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冷たいスープ。

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魚料理。
鰆だったっけ?・・・。
濃厚なソースと淡白な白身の相性がいい。

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肉料理は鴨を選択。
ジューシーで柔らかい。

これに自家製パンとデザート盛り合わせ、珈琲がつく。

私も一緒に行った友人もともに3月生まれだったので事前にそのことを告げておいたら、2人ともデザートがお誕生日特別仕様に。
写真撮影のサービスもあった。

珈琲のおかわりもできて、ついつい長居をしてしまい、気付いたら一番最後の客に・・・。

フレンチといっても地元のお客さんが多く、家族でわいわい食べることができるお店。
肩肘はらずに食べられていい。
次行ったらアラカルトにしてみようかな。

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2009/05/10

西荻の花

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母の日ということで、西荻の「フラワーショップ いしぐろ」で買ったカーネーションと、プレゼントを持って実家へ。
お祭り騒ぎの母の日のカーネーションは、お店によってお花の良さにかなり差が出る。
酷いお店だと、店頭でぎゅうぎゅうに容れ物に詰め込まれたカーネーションたちの茎が弱り、葉が折れているなんてことがある。花弁の密度も薄くてすかすかだったり。
いしぐろさんは、近所で何軒かまわった中で、一番お花の鮮度がよかった。
カーネーションがきちんとケースの中にいれられており、花弁の密度も濃くて申し分なし!
のんびりとしたおじちゃんの接客もほのぼの気分、癒された。
センスのいい花を買いたい時はいつもエルスールを利用するのだけれど、ああいうシックな花が得意なお店は、赤いカーネーションなんて絶対に置いていない。

私の中での、用途別西荻のお花屋さん。

・センスのいい洋風のお花→El sur(エルスール)、 blue water flowers
・センスのいい和風のお花→枝屋
・オーソドックスでありつつかわいい→アルジャンセル花桂
・オーソドックスで鮮度のいいお花→フラワーショップ いしぐろ
・自分用のお花をさくっと安価に購入→花良(西友内の無印系列のお店)

西荻って、いいお花屋さんが多いな・・・。
というか、花屋に限らず、いいお店が多い。お肉屋さんも、お魚屋さんも、八百屋さんも、パン屋さんも。
そもそも、こんな小さな街なのに手作りソーセージのお店が二軒もある時点で、珍しいから・・・。

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2009/05/09

虹架かる日

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今日、雨上がりに虹がでた。

ケータイで撮ったので全然よく撮れていないけれど、実物は色鮮やかで大きな弧を描く見事な虹だった。
あんなに立派な虹、初めて見たかも。

東京中のたくさんの人たちが
あの瞬間に色々な場所でみんなで同じ虹に注目して
ざわめいたり写真を撮ったりして
美しい時間を共有していたのかなって考えると
なんだかとてもほほえましくい。

今日、虹の記事を書いた人たくさんいるのだろうな。
虹の記憶が色々なところで細胞分裂を起こしているみたい。

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2009/05/06

論理と感性は相反しない / 山崎 ナオコーラ

論理と感性は相反しない

論理と感性は相反しない
山崎 ナオコーラ

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たいがいにおいて。
宇野亜喜良さんのイラストを装丁に使われると、それだけで素敵に見える。私の中で。
装丁と秀逸なタイトルだけで80点くらいとってしまいそうな本。

全編書き下ろしのこの本は、15作の短編と掌編からなる。同じ登場人物がでてきたり、それぞれがどこか繋がっている。深読みしようと思えばいくらでも出来そうな作品。

書き下ろしだからか、蓋を開けてみれば随分玉石混合。
軽くて読みやすいという点では楽しめるのだけれど、私が装丁やタイトルから受けた印象とはだいぶ違った。
あえてふざけているんだろうな、あえて予定調和をねらっているんだろうな、というのが目について、なんだかその具合が私には合わなかったり。
でも、表題作とそれに関連する話とか、好きな話もあるので読んでよかった。

以下、気になった作品の感想を。

論理と感性は相反しない

同棲しているカップル、神田川と真野の話。
いつも飄々としておちゃらけている神田川がかわいい。
一緒に暮らす男女の小さな諍いとか、仲直りの仕方とか、一寸したエピソードがうまい。
でも、物語の閉じ方が強引でいかにも作り話めいた体裁をあえて持たせてしまっているのが残念。

人間がでてこない話

色とか光とか風とか、そういうものについてちくちく語っている掌編。
言葉の使い方とか、着眼点とかが、きれいな詩っぽい。
ふわふわと風に吹かれて沢山の色の破片が舞っているイメージ。

恐怖の脅迫状

小学生の男の子が、クラスの女の子に机の中にこっそりバレンタインのチョコをいれられる。そのことを面倒がったり、腹立たしく思ったりしていると、今度は脅迫状が・・・という話。
女の子側の計算高さやべたべたさに対する、男の子側の冷めっぷりや正直なところが爽快な話。たしかに彼女の行為は一寸怖いのだけれど、幼くて無知であるが故の的外れな情熱とか空回りってあるよね・・・。

架空のバンドバイオグラフィー

こういう、架空のバイオグラフィーで、真面目な筆致であえてどこかずれた内容を書いて笑いをとる、というスタイルって特に目新しくもないし(小説ではあまりないかもしれないが)、なんだかちょっと寒い気がしてしまった。

ブエノスアイレス
秋葉原

アンチポデスの関係である、神田川とボルヘスの話。アンチポデスというのは、自分の足の裏側、地球を挟んで丁度真逆にいる自分の反対の存在のことらしい。神田川がブエノスアイレスに旅立った時、ボルヘスは秋葉原に来ていた。
永遠に出会う事は無い神田川とボルヘスのそれぞれのなんでもない話なんだけれど、一寸しみじみとしてかわいらしくて、なんだか柴崎友香さんっぽい世界観。

化石キャンディー

化石を見て、いつか自分も石になるんだと考える子供の話で、間とか雰囲気が好き。
柔らかくてあたたかいものも、いつかは冷たくて味もないものになってしまうんだよな。

社長に電話

作者自身をモデルにしているように思われる、作家矢野マユミズのサクセスストーリー。やれ四十歳で「情熱大陸」に出ただの、六十歳でノーベル文学賞 を受賞してお屋敷を建てただの、こてこての展開が淡々とした簡単な言葉で綴られるばかりで興醒めしてしまう。淡々具合はやや群ようこさ んっぽいのだけれど、予定調和すぎるストーリーがつまらない。あえてそうしているのはわかるんだけれど・・・。

まったく新しい傘

雨が降ったら埼玉県自体を大きな傘で覆ってしまいましょう、という話。
童話っぽい。
そういえば傘って本当に長い間進化しないね。
それを言ったら、服だって靴だって帽子だって手袋だってそうなんだけれど。

アパートにさわれない

「論理と感性は相反しない」のその後にあたる話。
アパートにさわれない夢をみたという件の描写が好き。二度と戻らない距離へいってしまった過去を暗示する。
思わず、フローリングの継ぎ目を撫でてしまった。
化石キャンディーの化石と、神田川が拾った石との意味が繋がる。
個人的には、このお話が15編目、最後にきたらよかったのにと思った。

「論理と感性は相反しない」書籍の詳細はこちら

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2009/05/05

フレンチ「AUX BACCHANALES」(紀尾井町店)

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先日、友人とAUX BACCHANALES(オーバカナル)紀尾井町店へ。

2500円のランチコースを注文。

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前菜は3種類から選べる。
ホワイトアスパラガスのサラダにした。
フレッシュなホワイトアスパラが好きなので春だし季節だしとそれを期待したのだけれど、缶詰のホワイトアスパラっぽい味でした・・・。

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メインはお魚とお肉から選択。
豚肉の蒸し煮にした。
お肉は脂っこすぎず柔らかく、下にひいてあるマッシュポテトも美味しい。

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デザートのクリームチーズケーキとアイスクリーム。
コースなのに珍しく珈琲がつかない。
何故・・・。

パリの雰囲気を再現したお店というだけあって、たしかに内装が「あー、あるあるパリにこういうお店」というかんじ。
日本にいながら、気軽にパリの雰囲気を味わいたい時にいい。
天気がよかったらオープンテラスの席で緑を眺めながらのんびりするのもよさそう。

ブーランジェリーが併設されていて、クロワッサンやパン・オ・ショコラといったいかにもフランスなパンから、フォッカッチャをはじめとした食事っぽいパン、バケット、ラスクなど色々なパンをテイクアウトできる。
いくつか買って帰ったのだけれど、バケットにバターをじゅわっと染み込ませたやつが美味しかった。

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デザイン変更

ふと思い立って、ブログのデザインを変更。

タイトル画像をつくって、自分で各色設定とかをしたレベルなんだけれど。
ぱぱっと出来るものをと思って別の用途の為に以前つくった素材を使い回してつくった手抜き画像なので、そのうちちゃんと考えてつくろうかな・・・。

自分でデザインした通りにCSSで細かく表現できたら本当はいいのだけれど、
そういうことをどこのページからどのようにやるのかよくわからず。

とりあえず一寸気分転換。

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2009/05/04

火星の人類学者—脳神経科医と7人の奇妙な患者 / オリヴァー サックス

Mahoro

火星の人類学者—脳神経科医と7人の奇妙な患者
オリヴァー サックス

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脳に何らかの障害を抱えた人々の、7つの話を脳神経科医オリヴァー サックスが紹介する。サックスは、あの「レナードの朝」の原作者でもある。

健常者と比べて何かが足りない事、それは時には大変なこともあるしより一層の努力が必要なこともあるけれど、その世界はその世界できちんと成り立つようになっていることがわかった。

印象深かった話をピックアップして感想を。
内容にも少し触れます。

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色盲の画家

色盲というのは、赤と緑など色の区別がつきにくいというものであり、ごくまれにどの色もわからなかったりする、基本的には先天性の異常である。
しかしこの患者ジョナサンは65歳にして事故が原因で完全に色を失ってしまった。しかも彼は画家なのである。
「色」を失った時、それはただ目の前からなくなるだけではなくて、脳からその色の存在自体が消えてしまうようである。色の知識はあっても、その色は思い出せず、みる夢からも色彩が失われる。
だから、目を閉じて鮮やかな色彩を思い出すということすら出来なくなってしまうということに驚いた。例えば、以前見た色鮮やかな向日葵を思い出したとしてもそれは記憶の中ですらも黄色くなく、ただのグレーの花ということになる。
それまで色の洪水の中で生きていた彼は、白黒とグレーの明度だけの世界(脳の中で色という概念で情報が処理される前段階のものを見ているので、白黒テレビや映画の画面ともまた違う気持ちの悪いものらしい)で生きて行かないといけないのである。

私はデザイナーで、普段仕事で「色」というものは切っても切り離せないものである。
そういえば、以前色彩感覚をテストするマンセルヒューマンテストをやったのだけど、スコアはパーフェクトだったので、色彩感覚は一応あるのだと思う。あまりよくないディスプレイでやったんだけれど・・・。(やりかたは「誰でもカンタンに自分の“色彩感覚”をチェックできるWEBサイト」の記事を参考に)
だから、「色」を日々意識している者として、同じように仕事で「色」とともに生きてきたジョナサンの喪失感の大きさを想像すると目眩がする。
しかも、ジョナサンは私なんかよりもずっと凄くて、色を見ただけでパントン社の色相表の何番かまでわかったのだという。
その感覚であったり知識であったりが、一瞬にして不要な物になってしまうということは、それまでの彼の人生で積み上げてきたものの意味を問う一大事ではないだろうか。

「色」という概念さえも壊れていき、目の前にはただただ黒から白(もっとも彼によると純粋な白はなく、煤けた薄いグレーに見えるようである)への明度だけで成り立つ光景。私たちからしたら絶望的な、勿論障害をおって間もない頃の彼にとってもそうであっただろうに違いない状況。
でも大脳皮質をはじめとしたこうした障害により色を失った場合、必ず忘却が訪れるのらしい。色への拘り、喪失感が薄れていった頃、彼の芸術には違った変化が訪れる。

彼の描いた絵が何枚か掲載されているのだけれど、事故後の塞ぎ込んでいた彼、二年後の解き放たれた彼の様子が如実に絵に現れていて興味深い。
変化に合わせて、失った能力の代わりに違った能力を開花させ、新しい世界へ適応していけるものなのだな。人間の順応性って凄いと、ただただ感嘆。

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「見えて」いても「見えない」

盲目だったヴァージルは、婚約者のすすめで、50歳にして手術をして視力を取り戻した。

でも、ドラマや映画のように包帯をとった彼が「見える!見えるぞ!!」と言い、周囲は感動、めでたしめでたし、というような単純なことではないらしい。

手術後、包帯を外したヴァージルの目に飛び込んで来たのは光と色と動きの混沌とした世界。意味をなさないぼんやりとした光景でしかなく、どれが人なのかもわからなかった。
ずっと物を認識する為に手を使ってきた人は、例えば触れば一発で立方体だとわかるけれど、見ただけではそれが何なのか認識できないらしい。猫と犬の違いさえもわからない。触れば、「見える」ようになるのだそうだ。

私たち五感が備わった者は、「空間」と「時間」の世界で生きているけれど、盲人は「時間」だけの世界で生きている。
だから、私たちが広い空間の一部分に自分がいる、と考えるのとは違い、盲人にとっては存在する空間=自分自身サイズでしかなく、人も物も自分と接触した後にどこかへ消えていくという認識だということに驚いた。例えば、さっきつまづいた石は、通り過ぎた後に消えている認識ということなのだもの。

私たちが生まれてから自然に獲得した「視覚の恒常性」や「空間」の認識、ヴァージルの前にはそれを50歳にして学習していかないといけないことの困難さが立ちふさがっていた。
目を開いていれば「見えて」いるという単純なことではなく、例えばどこへ焦点を合わせるのかとか、どうやってそれがそれだと認識するのかといったことには経験が必要であり、経験がない者には「見る」ことも出来ないのだと知って驚いた。
考えてみればたしかにそうなのだけれど、普段何も意識せずに出来ていることだけに、視力が回復したら誰もが得られる世界だと勘違いしてしまう。

私たちだって、仮に、視覚でも聴覚でも触覚でも味覚でも嗅覚でもない、新たな感覚が実はあるんですって言われ、急遽その感覚が使えるようになっても戸惑うでしょうし。
ましてや、視覚をつかわずにその感覚をつかって世界を認識してみろとか言われても、大混乱だ。
ないものを与えることは良いことだと思ってしまいがちだけれど、必ずしもそうではないのかもしれない。
それまで自分が過ごしてきた世界の価値感、それが良くも悪くも大きく変わってしまうということは、自分自身の何かも変わってしまうということ。
まわりがそれをよかれと一方的に押し付けることは、ある意味暴力的行為なのだなと思った。

例えば、文明的に遅れた国があったとして。
先進国の知識や技術を便利だよと教えてあげたとして。
その結果、便利になった一方で、公害が起こり自然が破壊されてしまったとしたら。
果たしてそれは必要だったのだろうか、というようなこと。
何かを得るということは、何かを失うということ。

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夢の風景

イタリアのトスカーナ州の丘陵の村、ポンティトのことばかりを描き続けるフランコ・マーニャ。
非常に精密なその絵は、全て記憶だけを頼りに描かれたという驚くべきもの。
絵と比べるために実際に写真に撮って来た人もいるのだけれど、それは彼の記憶の素晴らしさの照明になった。その絵と写真は掲載されているのだけれど、ここまで鮮明に思い出せることに驚く。

フランコの頭の中には、故郷ポンティトの立体模型があり、様々な角度から眺めたり、ひっくり返したりして、それを忠実にカンバスに再現できるのだという。
それだけなら、希有な能力を持った画家、ということになるのだけれど、フランコの場合はその驚異的な記憶力が発揮されるのはポンティトにのみ限り、そしてその思い出は彼の意思とは無関係に湧き出てくるというのだ。たとえば食事中に、わーっとポンティトの幻影が押し寄せてくると、彼はスケッチをする為に食事を中断してしまう。その幻は、角度を変えて見る事ができるだけではなく、匂いや音も伴うのだという。
思い出に支配されてしまったフランコ、彼は過去を芸術として高め生きる目標としていく一方で、新たなる未来を失っている。

引用されていた、キルケゴールの言葉が印象に残った。

記憶は最低条件にすぎない。記憶という手段によって、経験が思い出を経て聖なるものとなる……思い出は理想だからだ……そこには努力と責任がともなうが、無差別的な記憶にはそれがない……したがって、思い出すということは技術である。
(キルケゴール「人生行路の諸段階」)

経験をただ「記憶」としてストックするのではなく、それから不要な部分を削ぎ落とし、スパイスをかけ、「思い出」として昇華して必要な時に味わう、といった行為を、私たちは無意識にやっているけれど、そうか、それも技術のいることなのだなと妙に納得した。

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火星の人類学者

テンプル・グランディンは、自閉症であるにも関わらず、動物学で博士号をとり、州立大学で教え、さらに事業を経営している。
動物管理システムの精密な設計図を書ける一方で、複雑な感情が理解できない彼女は、自らを「火星の人類学者のようだ」という。
彼女は、「論理的」に人とコミュニケーションをとる。
人がどういう時にどういう行動をするか?といった「知識」が彼女の頭の中のライブラリーにストックされていて、必要に応じてとりだして参考にする。自分がそう思ったからと行動するのではなく、どうすることが世の中的に自然なのか?という知識に基づいた社交。彼女は、自分の「感情を理解できない」という欠点を、努力でカバーしているのだ。

テンプルは、娯楽も友情も愛情も自分が体験することは諦めている。何かに夢中になることはなく、感動することもなく、誰かに特別な感情を抱く事もない、そんな自分を極めて冷静に客観視している。
自分が周囲と違う事に気付いてしまって、そこには埋めようのない溝があることを知って、どうやっても自分が皆のように生きて行けないことを悟るというのは、どういった感じなのだろう。
だが、そんな彼女は動物の気持ちだけは非常によく理解出来る。動物の感情には、人間のように嘘やまわりくどいものがなく、シンプルだから。いわゆる「空気を読む」といったことが必要のない世界。「言わないでもわかるだろ」なんてことのない世界。動物たちは自分たちの感情を隠さないし、悪巧みもしない。ましてや騙したりもしない。
人の感情は理解できなくても動物の感情は理解出来る・・・そんな彼女をみると、私たち人間の駆け引きだったりまわりくどさだったりっていうのは何なんだろうねって思う。

彼女は、エネルギーの痕跡として遺伝子を残せない代わりに、思想や書いたものを残したいという。
残す事で、自分の人生に意味があったと納得したいのだと。
感情が理解できなくても、人と違っても、彼女は自分の生をこんなにも丁寧に見つめて、自分の存在の意味を考えている。
何も人と違わず、五体満足で生まれて来た人々の中で、そういった考えに行き着くことがない人だって大勢いるはずなのに。
ハンデがあることと、それを背負ってなおも努力していることが、彼女の生を思想をより一層磨き、輝かしているのだと思った。
知的でクールで素晴らしい人。

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2009/05/02

いろいろな容れ物たち

Img_2650

※パリ、ペール・ラシェーズ墓地の中

日本のお墓と違って、パリのお墓は多種多様。
色々な像であったり、凝ったステンドグラスに飾られたそれ自体が教会かのようなお墓であったり。

そういえば、エアメールを出す時に人それぞれペンで色々違う挿絵をいれてだしたのだけれど、この翼のある像もどこかに描いた。
ペンと色鉛筆と住所録は海外旅行の必須アイテム。
旅行中絵をたくさん描くつもりだったけれど、寒さで耳が千切れる程痛い真冬のパリでは手袋を外して長時間デッサンするのは無理だった。
かじかんだ指先は、借り物のように鈍くしか動かなくてもどかしい。

でも、そういう強い刺激を受けている時の「感覚の記憶」はよく残る。
だから、耳が千切れそうな時にどこを歩いていたのか、とか、その後どこへ非難したのか、とか、かじかんだ指先をさする自分がどこで何を描こうとしていたのか、とか、その後諦めてどうしたのか、とか。
もう大分時間が経つというのによく覚えている。

iTunesをシャッフルにしていたら、ちょうど「飛べない翼」が流れて来た
毎日毎日を過ごして行くうちにやがて抱え込むそれは、本当に必要なんだろか。
惰性に絡めとられて思い込んで決めつけてしまうことが多い気がする。

「飛べない」って時点で、多分それは偽物なのに。

夕暮れの空はあかく
もうすぐに暮れてしまう
だから飛べない翼を
捨てたら 捨てたなら
あたしは舞い上がろう

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2009/05/01

Salyu Tour 2009 Merkmal(渋谷C.C.Lemonホール)

コルテオ

※コルテオ〜行列〜/HALFWAY

先日、二度目のSalyu Tour 2009 Merkmalに行ってきた。

今回の会場は、前回に比べてこぢんまりとした「渋谷C.C.Lemonホール」
前回は二階席だったのでだいぶ遠かったけれど、今回は一階の前から二十列目くらい。
前回少し見づらかった画面もよく見えたし、小さな会場ほどこのライブの雰囲気に合う気がする。

セットリスト等、構成は基本的に武道館の時とほぼ一緒。
リリイとSalyuが融合した10周年記念ライブ。
リリイの曲の時には、「夢の中で夢をみたわ・・・」などリリイ・シュシュの世界を思わせる黒い背景に白い文字で言葉が出るところも一緒。

違うところといえば、最終日だからかSalyuがはしゃいで元気でよく踊って喋ったところと、最後に小林武史が登場したところ。
「私のゴッドファーザーです」と紹介され、大きな花束を渡されていた。
小林武史演奏でSalyuがうたう「Dialogue」を聴けてよかった。

はじめはリリイが好きで、Salyuのうたは明る過ぎてそこまでひかれなかったのだけれど、聴けば聴くほど彼女の声にひきつけられ、Salyuとしてのうたも好きになった。
リリイとSalyuなんじゃなくて、リリイがSalyuなのだしね。
でもやっぱり、どちらの曲が好きか?と言われれば、相変わらずリリイで、生でリリイの曲を聴くと涙ぐみそうな感動が押し寄せる。

次回のライブでもまた、リリイの曲をうたってくれるかな。

+-+-+

セットリスト

前奏曲
回復する傷

プラットホーム
be there
彗星
TOWER    
飛べない翼
飛行船    
エロティック
name
夜の海 遠い出会いに    
sight
砂    
再生    
landmark
Dramatic Irony    
VALON1
toU    
I BELIEVE    
コルテオ~行列~    
グライド

*Encore*

トビラ    
HALFWAY    
風に乗る船    

Dialogue(演奏:小林武史)

+-+-+

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箱と欠損

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※パリのどこかの回廊のオルゴール屋さん

パリにあるオテル・デ・ザンヴァリッド(通称アンヴァリッド)はルイ14世が建てた廃兵院で、金色に輝くドームが美しい建物。その名前は「肉体的欠損者」という意味を持つ。
今はナポレオンの墓が眠るそこは、ひんやりとして厳粛な場所。

今読んでいる本「妻を帽子とまちがえた男」には、色々な形で自らの何かを失う人々がでてくる。
脳の一部の何かが欠けただけで、己を位置づけていたものに狂いが生じ、そのまま自分を見失ってしまう。

フロイトは物質的で有形のからだによるアイデンティティ「肉体的自我」が自我の基盤と考えていたけれど、ではその基盤に欠けが生じたら、人はどうなってしまうのだろう。

肉体と心の関係は密接で、肉体に受けた欠損はそのまま心の欠損となり得る。
今までみていた世界すらも変えてしまう。
普段、たとえば女性は月に一度の体調不良の時は苛々したり落ち込みやすかったりするけれど、そんなレベルじゃない変化がそこにはある。
肉体に振り回される自分って、何?

そんなことを一寸考えていたら、今日たまたまつけたテレビで、癌患者の方と難病の方がホノルルマラソンを完走するというドキュメンタリーをやっていた。
失った分、自分で自分の身体にそれまで以上の意味を与えている彼らは、健康な多くの人たちよりもずっと丁寧に見て、聞いて、動いて、愛して、生きていた。

色々な意味で、私は贅沢だな、と思った。
とはいえ、人はそれぞれの檻があるから私は私のサイズの檻の中でぶち当たって精一杯やっていくしかないのだけれど。
たまに俯瞰して、ちっちゃい檻だなぁとか思ってみたり。

火星の人類学者—脳神経科医と7人の奇妙な患者」の感想を書こうかな、と思ったら本が行方不明。
私ってほんとなくし物とか多い・・・。
猫が遊んでてどこかにやっちゃったんだろか。

そうそう、あと、身体の内と外をテーマにしている純文学、といえば吉田修一さんの「パークライフ」がおすすめ。深い。

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