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2008年9月

2008/09/29

青が明ける時

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先日、明け方にふと目が覚めた。
外は、青いセロファン越しに光が差し込んでいるんじゃないかってくらい青に染まって、寝静まった周囲は音が吸い込まれてしまったかのように静か。
あの時間の青さの透明感はいい。

暫くして陽が昇って来たら、分厚い雲と柔らかい桃色の空気の二層の空。
毎日早起きしたら、毎日美しいものから始められるんだな。
そろそろ寒くなってきたけれど・・・。

肌寒くなってきて、2匹の猫とひっついていつまでもついついごろごろ寝てしまう。
ぐるぐるぼやぼやしているうちに、あっという間に9月が終わる。

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2008/09/28

繋がりのスイッチ

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外界との繋がり、というのは、真っ最中には至極自然なのに
何故だか、ふっと遠く昔に感じることがある。
朝みた夢を反芻して、印象深く刻まれたと思っても
時間が経ったら、手触りや感覚が嘘みたいに遠くなってしまうように、
自分と繋がる色々が雲散霧消してしまう時。

何かを悩んで、うだうだと考えている自分が認識している世界と
スイッチをぱちりと切り替えたようにそれが気にならなくなってしまった自分が認識している世界とは
色も形も見え方も絶対的に違っている。
今朝私が気にしていた事はもう遠くて
その存在さえもあやうい。
私が考えなくなったら、その瞬間にその問題はあったことすらなかったかのように消滅してしまうのか。

そもそも何かを悩む、というのは、繋がっているから悩むわけで。
その瞬間何かを強烈に意識しているから繋がっちゃうわけで。
私はいつでも、その繋がりを解放することが出来るのだけれど。

外界との繋がりをふっと手放して独りな時というのは、
パリで独りぼっちになった時の感覚に一寸似ている。
アパルトマンのベッドで目を閉じて、外の音を遠くに感じて。
でも私はこの外の何とも完璧に繋がっていないんだな、って感覚。
今私に何かが起こっても、誰も何もしてくれないという諦観。
どこにも属さず、誰にも気にされず、切り離されて、ぷかぷかしている意識。

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2008/09/23

秋の空の黄色いボート

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秋分の日が来て。
名実共に秋の空。

夏の、もくもくと厚く強い雲とは違って、
薄く散った優しく繊細な雲。

おにぎりを竹籠につめて、今日も今日とて善福寺公園。
先日友人がくれた音を聴きながら、公園でぼーっとする。

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青い空の下に、幾艘もの黄色いボート。
水泳の授業でバタ足をしたことを思い出すような音で、ぐいぐい前に進んで行く。

たまに、決別したはずのものに足をとられて。
前に進めなくなって。
それでも、やっぱり、進まないといけなくて。
あの黄色い足漕ぎボートのように、何も考えず、ただただ漕いで前に進めたらいいのに。
青い空に映える、あの黄色をまき散らしながら、迷い無く進めたらいいのに。

でもやっぱり、ボートじゃなくて人間だから迷う。
立ち止まる。
でも、それでいいのだと思う。
ほんのすこうしずつでも、前に、進めているのなら。
目的地をわかっているのなら。

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2008/09/22

空気の色

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先日、なんだか久々に夜の空が大賑わいだなぁと思ったら、翌日に台風が来た。
そりゃ賑わうよね・・・。

体調を崩して、寝込んでいた土曜日。
薄暗闇の中で音楽も流さずじーっとしていたら、何かをふっと掴みかけた。
私らしい空間。
この中でものをつくらなくちゃ、という、確信。
その空気の色を見た。

進むべき道はわかっているのに、相変わらず些末なことに振り回され、余計な事に気をもみ、些とも進んでいない。
茫漠とした日常の波にわあわあ流されているうちに、いつしか記憶や目標が滲んで、何もかもが他人事のようになってしまうのは嫌だ。

楊逸さんの「時が滲む朝」を読了。
読み慣れない中国の地名や人名が多く、読み進めるのに少々時間がかかったけれど、いい作品だと思う。近々書評を書く予定。

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2008/09/19

届いた音

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※いつもお寿司屋さんの側にいる近所の野良の子

最近、メールで連絡をとることが非常に多いのだけれど。
郵便受けを開けた時に、友人からの郵便物がはいっていると予想外の嬉しさ。
やっぱり、手で書いたものが、これまた郵便屋さんという人間を介して、時間をかけて届くのって素敵。
時間をかけたものはその長さの分だけ層が厚くなって深くなる。

今日は、友人が私の為につくってくれた、おすすめ曲を集めたCDが届いていた。

秋の夜長にぴったりな曲たち。
もっとも、朝も構わず通勤電車で聴こう。

通勤電車のような気の抜けない人混みでは、音楽で防御していることがある気がする。
入って来れない個人の空間を簡易につくり出せる手段。
そうでもしないと、人混みって疲れる。

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2008/09/18

雨宿り中の風景

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※干している折りたたみ傘に入るのが好きなうちの子

ここのところずっと仕事が暇だったのに、珍しく最近仕事が立て込んでいる。
写真の補正をして、Fireworksでイラストを描いて、更新するページの文言をデザインデータにコピペコピペではめていく。
ちくちく作業をするのは元来好きなのだけれど、今日はコンタクトレンズを片方失くしてしまったので、くっきりな右目とぼんやりな左目。
くっきりとぼんやりが脳の真ん中で結んだ虚像はちかちかくらくら。
これは酔う。

帰り道に見た月はじんわりと空に溶け込むようにぼやけてしまい、はて満月なんだろうか欠けているのだろうかという始末。
見ている世界がぼやぼやしていると何だか弱気になるし、色々が考えられなくなる。

目の前に異物があった方が世の中がくっきりだなんて、変なの。
硝子越しに外を見るとき、少なからず何かが遮られるものなのに。

そもそも、私が見ている世の中なんて、あんな薄いレンズ一枚の有無でいとも簡単に姿を変えてしまうくらい曖昧なもの。
「見る」という行為で認識できているこの世のことなんて、ほんのすこうし。

私が見ているこの傘の赤さと、他人が見ている赤さですら。
きっと違う。

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2008/09/15

映画「スカイ・クロラ」

Sky_1 「スカイ・クロラ」
★★
監督: 押井守
原作: 森博嗣
脚本 : 伊藤ちひろ
声の出演 : 菊地凛子 、 加瀬亮 、 谷原章介 、 竹中直人 、 榊原良子 、 栗山千明

映画の詳細情報はこちら

・・・・・・・・・・・・・・・
先日書評を書いたスカイ・クロラの映画を観てきた。

吉祥寺バウスシアター2なので、座席数50でこぢんまり。
整理番号が1番で、私どんだけ張り切ってんだって感じだったけど・・・。

ストーリーは原作と基本的には一緒。
ショーとしての戦争が行われる時代。
パイロットの函南優一(カンナミユーイチ)は、新たに兎離州基地に配属となり、女性司令官の草薙水素(クサナギスイト)のもとで、働き始める。
永遠に歳をとらないという「キルドレ」とは?
優一の前任者、クリタ・ジンロウはどうしていなくなったのか?
やがて、惹かれ合う優一と水素は・・・という話。
以下、内容にふれていきます。

キャラクターは、原作本を忠実に再現している感じがしてとてもよかった。
小説を漫画化する場合、イメージとは違う!というのが普通は少なからずあると思うので。
あ、でも、ササクラが女性になっているのにびっくりした。
原作を読み誤ったのかと思ったのだけれど、やはり映画だけ女性に変えられていたよう。
ティーチャー(=父)に対する、母なのだとか。

肝心の戦闘機。悪い意味でCGっぽさがでてしまっていたけれど、それでも空中戦の迫力はなかなか凄かった。
原作は詩的で時が止まったような感覚があったけれど、映画はリアルな空中戦。

声優では、唯一菊地凛子が惜しい感じがした。
迫力に欠けるというか、本来存在感が強くないといけないはずの水素のキャラクターが霞んでしまった。

映画のビジュアルは本当に美しかった。
でも、今回大いに不満なのが脚本。
全体的にわかりやすく、予想できる範囲を出ないというか・・・。
特に、ラストにはがっかり。
繰り返される日常からの脱却の為に、優一がとった行動がティーチャーに挑むことだなんて。
それって結局、彼らが背負わされている宿命、「戦闘機で戦う事」から逃げられていないじゃん。
基地を離れるとか、もっと枠組み自体を壊す他の手段があったのではないだろうか。
そして、エンドロール後、優一の生まれ変わりであるヒイラギ・イサムが基地を訪れ、優一の影響で考え方を変えた水素がにこやかに迎え入れるって、完璧想定内の結末だし。
心底がっかり。

この映画は、どうやら現代の若者とキルドレを重ねているらしい。
「毎日毎日、飽きる程同じ事の繰り返し。
でも、そんな毎日も、自分の力でほんの少し変える事ができるのだ。」
そんなメッセージが込められているのだろう。
しかし、使い古されたメッセージな上、それを意味することそのままずばりを優一に言わせてしまうところとか、陳腐だなと思う。
そういえば、戦争に関する水素のセリフも、説明臭くて長過ぎたな・・・。

また、キルドレという、歳をとらず、平和を維持する為のショーとしての戦争の為だけに存在する彼らの宿命について、明らかに描写不足だと思う。
原作を読んでいる私ですらそうなのだから、原作を読まずにこの映画を観た人にとってはもっと馴染まないのではないだろうか。
その存在の特異さ、そしてそういう彼らを必要とする世の中の不気味さや狂った感じをもっと出した方が深みが出たのではないだろうか。
何冊にもわたって出されている原作では多くが語られなくても行間から推察するというのはありなんだけれど、映画でそこをぼかされてしまうと、単なる消化不良で中途半端な要素で終わってしまう。

基本的には難解なところがなく、万人受けする映画なのかもしれないけれど、個人的には非常に不満の残る作品。
イノセンス」の方が面白かった。        

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2008/09/13

新しい季節になる

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先日の、気持ちのいい温度を肌で感じた日以来。
見事に私の中の季節も切り替わったよう。
暑くて目眩がしそうだった時期が終わって、秋が来た。
何とも言えない清々しさと、充足感。
やっと、自分が進むべき方向に、自信を持ってマイペースに進める予感。

これを感じ、幸せだと思えるのは、暑くて辛かった時期があったからだ。
以前の記事にも引用した、ジョナサンの言葉通り。
再度引用。

なぜ人生では問題が起こるのでしょう?「経験」という名の海を順調に航海できないものでしょうか?そんな質問をするのは「なぜ雨が降るの?」とか「夜をな くして昼だけにすることはできないの?」といった質問をするようなもの。「下り」を体験してこそ「上り」の喜びを理解できます。問題が起こるからこそ私た ちは変化を起こすのです。疑惑を感じるからこそ、確信のよさを理解できます。(ジョナサン・ケイナー)

渦中にある時は、その夜が、雨が、一生止まないような気になってしまう。

「今までだって、必ずいつか止んでいたじゃない」

そんな経験と理屈を頭でわかっていても、感情を飼いならす事は未だ難しく、ぐるぐるぐるぐるスパイラル状に落下してしまうことがある。

これから先も、きっと何度もあるのだろう。
それを考えると、一寸憂鬱になる。

でも、雨が降ったら降った分だけ、きっと晴れやかな気持ちのいい日を喜べるから。
だから、辛いことはその後起こるいいことへの布石くらいに考えて、戦うところでは戦って、流すところでは流して、うまく付き合っていけたらいいな、と思う。

私には守るものがあるし、助けたい人もいる。
だから、もっともっと強くならないといけない。

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悪人 / 吉田修一

Akunin悪人
★★★
吉田修一

書籍の詳細情報はこちら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吉田修一の最高傑作だという書評をいくつも目にしたこの作品。
ずっと気になっていて、先日やっと読了。

保険外交員の佳乃がはじめに殺される。
そこで、犯人は明かされない。
犯人は誰なのか?そして何故佳乃が殺されなければならなかったのか?そういった視点で読み進めると一種のミステリー小説なのだと思う。
でも、私はこの小説をミステリーというジャンルで括る事には違和感がある。
謎解きに重きを置くそれとは明らかに違い、この作品は人物描写が丹念でそこここに強烈な人間臭さが漂っているからだ。

この作品は、今まで読んで来た他の吉田修一作品とは明らかに毛色が違う。
それまでのものは、いい意味でどこかドライで登場人物を突き放している印象があったのだけれど、この作品は今まで切り込んでいなかった人物の内の内まで入り込んで、隅々まで余す事無く描き切っている感がある。

誰が「被害者」で誰が「加害者」なのか。
誰が「悪人」なのか。
殺人者が加害者で、殺された人が被害者だ、というような、ハリウッド映画で見るようなわかりやすい善悪はここにはない。
誰もが悪と善とを併せ持ち、昨日まで普通に暮らしていた人が突然誰かの命を断つという凶行に駆られてしまう可能性が示唆されている。
また、ある人にとって価値のない人間でも、別のある人、例えばその人の家族にとっては宝物であったりして、一人一人の中で認識されている「その人」の像が全く違うのだということも考えさせられる。

前半の、佳乃が殺されたあたりの殺伐とした空気とは一変して、後半は祐一と光代の純愛劇となる。
ラブシーンの描き方にやや安っぽさを感じつつも、人を愛する事、そして愛する事で起こる変化というのを再確認させられる。恋や愛は良くも悪くも強大なパワーがあり、それによって人はいくらでも変わっていけるのだ。

祐一は、2人とも被害者にはなれないと考えている。
一方が被害者なら、一方は加害者なのだと。
たしかに、私たち人間が誰かと関わる時、程度の差こそあれども、どうしても振り回す方と振り回される方とに別れてしまうものなのかもしれない。一見、被害者のほうがただ可哀想に見える。でも、祐一のように、自分が加害者になることで相手を救いたいと考えている人もいるのだ。
自分が被害者だと思う人は、もしかしたら自分が相手を加害者にさせてしまっているのかもしれないと、一寸考えてみるといいのかもしれない。

複雑に絡み合う人間模様。
悪人は誰か。
この人にとっての加害者は誰か?
被害者は誰か?
そんなことをじっくり考えつつ読み進めると、非常に面白い作品だと思う。

一寸した嘘。
小さな悪意。
そのどれもが、自分を守る為の弱さからでているということ。
結局は誰もが幸せになりたいのだから。

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2008/09/10

秋晴れが吹く

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※肉球の隙間から毛がはみでているうちの子

通勤途中に、駅のホームを歩いていて思った。
うわっ、今日、なんて気持ちがいい気候。

ランチに出た時も、やはり気持ちが良くて。
会社のビルのすぐ近くのイタリアンでむしゃむしゃランチプレートを食べながら、
食べ終わったら社内になんて戻らずに、外でぼーっとしたいって思った。

外でぼーっとの願望は叶わずじまいだったけれど、
それでも気候のいい影響はちゃっかり受けたらしい。
ここのところのもやもややくさくさが、暖かい太陽に照らされた雪のように、すーっとなくなってしまった。

明日の朝食用の野菜たっぷりのスープを仕込んで、玄米を炊飯器にセット。
とりあえず、やる気のあるうちに身体にいい生活をしておこう。

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2008/09/04

まあるくなりたい

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※ぽこんっと丸雲

四日ぶりのオフィス街は、すっかり私に余所余所しい。
それはつまり、歩み寄れば近くなり、背中を向ければ遠くなるということで。
結局は自らの意思なんだけど。

 先日、吉田修一の「悪人」を読了した。
まだ書評に書ける程落とし込めていないので、もう少ししたら書く予定。

身近な人の小さな悪意が透けて見える時。
自分にとって大切な人の些細な悪意なら、背景や弱さも含めて愛せる事が理想。
何らかの形の傷付きが刃になるものだから。
それはとても弱いということ。
未熟ということ。

でも実際は、その刃で自分が傷付いたことに目がいってしまうから、とても難しいのだけれど。

悪人。
悪意。
残った抜け殻。
吹いて飛ばす。

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2008/09/02

夏の最後の気配

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終わりかけたはずの夏。
いつの間にかまた暑さがぶり返し、燃え残りの花火のようにしぶとく光っている。

先日、しみずやでコッペパンに魚のフライやらポテトサラダやらを挟んだお惣菜パンを買って、てくてく善福寺公園へ。
緑が深く茂る公園の中は、蝉をはじめとした夏の虫たちが大合唱。
遠い空に向かって伸びる木々の枝葉は強い太陽の日射しを遮り、虫たちの声を公園の中に閉じ込める。

一人で静かな大合唱を聴きながら、見上げる、空。

ああ、もうすぐ、夏が終わるんだ。

虫の声と、日射しと、緑の気配とから、そう感じた。

私は、
とろとろと、あらゆる境界が甘くなって溶け合う夏よりも、
ぴりりと、ひとつひとつがきちんと孤立する冬が好きで
猛暑の中飲むビールの美味しさはちゃっかり楽しみつつも
早く寒くならないかな、なんて考えている。

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誰にでも、エネルギーがもらえる場所ってあると思う。

私にとって、その場所のひとつが善福寺公園。
多分、静かで、人が少なくて、緑の多いのんびりとした場所ならどこでもいいのだろうけれど、家の最も近所でそれを満たす場所はここ。

ドビュッシーを聴きながら、パンを齧りながら、景色を目にしつつ色々なことを考える。
本当は読書もしたかったのだけれど、思いのほかまだ蚊が多くて、断念して散歩に切り替える。

私のいる場所。
私が向かう場所。

たまにこうやって、リセットしないと、何かに知らぬ間に轟々と流されて、目的地とは違った方向に行ってしまう。

公園に、真っ黒い蝶。
地面すれすれをふらりふらりと危なっかしく飛んでいた。
あの子はどこへ行くのだろう。

もう、夏が終わる。

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NOSTALGIE  マグナムの写真家たちが見つめたパリ(CHANEL NEXUS HALL)

Nostalgie
Robert Capa

先日、マグナム・フォト主催の写真展「NOSTALGIE  マグナムの写真家たちが見つめたパリ」へ。
シャネル銀座ビルの4階にて、無料で観られる。

マグナム・フォトは、1947年、ロバート キャパの発案により、アンリ カルティエ=ブレッソン、ジョージ ロジャー、デビッド シーモアらが集まって創設された世界で最も権威ある写真家集団。

普段シャネルに行く事がないので、初めてシャネル銀座ビルにはいったのだけれど、エレベーターのボタンが見あたらない。
よく見ると、◯がシャネルのマークを形成していて、そのうちのひとつがボタンだった。
わ、わかりにくいっ。

4階のフロアには、アンリ カルティエ=ブレッソンをはじめとした、マグナムの写真家たちが写したパリの姿があった。1940年代から現代に至るまでのパリ。

パリというのは、本当に長い間姿が殆ど変わらない街。
何十年も前に写された景色と、つい最近写された景色とが、隣に飾られていても違和感がない。
古い古い写真を見ても、私が知っているパリと同じ顔をしていて、懐かしさがこみ上げる。
私はいちいち連れに解説をしてしまったくらい。

一緒に行った友人と、お互いが一番よかった写真を選んだ。
私は一枚に絞り切れず、二枚選んだ。
一枚目はカルティエ=ブレッソンが写した駅にいたカップルの写真。その写真展の中からどれか一枚を部屋に飾るとしたらこれだなって思った写真だった。駅で別れを惜しむ、ロマンチックなカップルを印象的に切り取った写真。
もう一枚は撮影者を失念してしまったのだけれど、パリのアパルトマンの玄関の写真を選んだ。螺旋階段の上、窓から差し込む灯りとそこに舞う塵、パリのアパルトマンらしさが凝縮された一枚。

友人が選んだのはロバート・キャパの「パリ解放」の写真。喜びにわく市民たちのエネルギーが写し出された一枚。

一枚一枚、時代が、場所が、視点が違うパリの姿がおさめられている。
無料とは思えないクオリティの高さ。
普段シャネルに行き慣れていない人には少々敷居が高いけれど、おすすめの写真展。

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2008/09/01

光、水、悲しみ、エネルギー

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※西荻ハンサム食堂の灯り

先日、涙腺の違和感について書いたのだけれど、私がそうなってしまっている期間に、親しい友人があるトラブルで毎日悲しい思いをしていたらしい。
私が正体不明な悲しみを引きずっていた期間と丸かぶりだったので、もしかしたら、その子の悲しみをひろったのかなぁ、なんて思ったり。
その子に会った時も、頭が話を理解する前に、涙腺が勝手に緩んで来ちゃって、泣きそうになってしまって。彼女に、「なんか私今泣きそうなんだけど、悲しい?」というようなことを聞いたら、「*yuka*は霊感あるの!?」と驚いていた。

私はたまにそんな風に、身近な人の感情が、どわーっと勝手に自分の中に流れ込んでくることがある。
相手がいかにも悲しそうにしているとか、そういうのではなくて、目に見えない悲しみのエネルギーが勝手に私の内にはいってくる感じ。

逆に、泣いている人とか、悲しみのエネルギーを自ら放出している人からは、そういうのはきたことがない。つとめて冷静にふるまっているけれど、実は心の中はものすごい悲しみ、みたいな場合にくる。
そんでもってそれは、どわーっとくる。滝のように、どわーっと。
悲しみのエネルギーって、水に似ているのかなぁ。
出ないようにって蓋をしてしまうと、勢いよく溢れてしまう、みたいな。

そういう、目に見えないエネルギーに、昔より敏感になってきている気がする。

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