第137回芥川賞受賞作 「アサッテの人」 諏訪 哲史
「アサッテの人」
諏訪 哲史
第50回群像新人賞 及び 第137回芥川賞受賞作
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突然失踪をした叔父のことを、語り手である「私」が読者に説明していく小説なのだけれど、その形態が変わっている。
もともとは「私」が叔父の事を小説にしようとしたらしいのだがまとまらず、「自身の語り」「叔父について書いた小説の草稿」「叔父の亡き妻による話を元に書いたエピソード(書いているのは「私」だが、妻の視点で書かれている)」「叔父の日記」を部分部分つぎはぎし、そのまま読者に向かって投げ出しているのだ。
つまり、「私」の語りの合間に「・小説草稿より(浮沼団地の叔父の部屋)」などというタイトルとともに、草稿が一部挟まれるのだ。ただこの草稿というのが(中略)などと途中端折られているし、非常に退屈な内容だなぁと思っていたら、「事実を写すことに逸りメリハリを欠いた文章、中略による風通しの悪い断絶、・・・草稿のもどかしさをあげつらえばきりがないが」など、「私」が私が書いたとされる草稿に突っ込みをいれていたりするわけである。
「私」が「メリハリを欠いた文章で小説を書いた」ということで、「私」という人物にリアリティが生まれるかというとそんなこともなく、ただその小説草稿の部分を読み進むのが苦痛であったりする。
だから、まずこの出だしの小説草稿の部分でいささかうんざりしてしまった。
普通の小説が、絵の具のみで描かれた絵画であれば、この小説は「コラージュ」である。
絵の具で描いた絵(私の語り)の上に、写真をちぎって貼り(朋子のエピソード)、立体物をところどころに重ね(叔父の日記)・・・といった代物である。それが故に、好みがわかれる小説だと思う。選考委員のように、あらゆる小説を読んできた方々には概ねうけがいいのかも。
私は個人的にはあまり好きじゃない。
小説って、何かの出来事や描写があったら、そこから自分で想像して読み取りたかったりするのだけど、この小説だと叔父さんの日記中の出来事や気持ちに関して、いちいち「私」が推察してああだこうだとうるさく述べてしまうのである。それが過剰に感じる箇所も多く、なんだかなぁと思ってしまった。
その他、最後に挟まれる「追記」や「平面図とその解説」など、狙い過ぎ、やり過ぎな感じが否めない。
タイトルの「アサッテの人」とは、叔父の事である。
この叔父は吃音者だった。吃音であるが故の孤独と劣等感を感じて生きて来たのだが、ある日突然吃音が治った途端に、今度は普通であることにどこか絶望してしまうのだ。
その結果、「ポンパ」などの意味不明な言葉を突然言い出す人へとなってしまう。
そして、妻が事故死した後には、 一般の人とはねじれの位置にある「アサッテ」を追い求めるあまり、姿を消してしまうのだ。
「ポンパ」「タポンテュー」「チリパッハ」など、叔父が口に出す謎の言葉について妻が細かく書き記す。
使われる場面、発音の仕方、語源などなど・・・。
こういう馬鹿らしさでくすりとできる人もいるのだろうけれど、逆になんだこの馬鹿らしさは・・・と冷めてしまった私って意地悪なんだろうか?
ちなみに、この小説全てに対して否定的なのではなくて、叔父の妻朋子が「豆腐のサクサク揚げ」のことを夫と話す場面だとか、「チューリップ男」の奇妙な行動だとかは面白く読んだ。
叔父が吃音に苦しみ、吃音を克服した後にまた別の苦しみにおそわれる部分の日記の描写も興味深かった。
好みではないのだけれど、この小説が握っている要素などから、昨今の芥川賞受賞作の中では濃い作品だなとは思いました。諏訪さんが書く、オーソドックスなタイプの小説が読んでみたい。
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