ブラフマンの埋葬/小川 洋子
「ブラフマンの埋葬」
★★★★★
小川 洋子
第32回泉鏡花賞受賞作
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夏のはじめのある日、ブラフマンが僕の元にやってきた。朝日はまだ弱々しく、オリーブ林の向こうの空には沈みきらない月が残っているような時刻で、僕以外に目を覚ました者は誰もいなかった。
ある出版社の社長の遺言でつくられた<創作者の家>は、あらゆる種類の芸術家の為の無償の仕事場。
主人公はそこの住み込みの管理人。
そんな主人公の元に傷ついた動物がやってきた。
僕はサンスクリット語で「謎」という意味の「ブラフマン」という名をつけ、その動物を飼う・・・という話。
以下、内容にふれていきます。
村の中心部から10分程のところ、すぐそばに木々が茂る森のそばに<創作者の家>はある。
僕は、<創作者の家>に来る芸術家たちには内緒でこっそりとブラフマンを飼い始める。
<創作者の家>に工房をもつ、碑文彫刻師が彫った墓石の中から選んだ名前「ブラフマン」
ブラフマンは、はじめ犬かと思ったのだけれど、水かきや鉤状の爪があり、ラグビーボールのような体格らしいというあたり違うようである。ヒマワリの種が好きらしいので、げっ歯類かとも思うのだけれど、描写によってイメージできるのは子犬の瞳。
サンスクリット語で「謎」を意味する通り、読者にとってブラフマンの正体は謎なまま物語は進む。
この小説には、ブラフマン以外には「名前」がでてこない。
僕、碑文彫刻師、雑貨屋の店主、娘、クラリネット奏者、ホルン奏者、レース編み作家・・・。
どこかの国のどこかの街で起こった、朧げな物語のように進んで行く。
日本であっても、ヨーロッパであってもおかしくない。
また、タイトルにある「埋葬」は物語世界全体を包んでいるキーワードでもある。
墓石に文字を刻む碑文彫刻師、ラベンダーの箱に死者をいれて川を流す昔の埋葬方法、古代墓地、ほこらと石棺、骨董市で買った遠い昔に亡くなってしまったであろう古い家族の写真・・・。
静かで神聖な、まるで朝霧のような「死」と「弔い」の雰囲気がたてこめている。
朝霧と言えば、こんな場面がある。
朝霧の冷たさとブラフマンの温かさが、僕の中で一つに溶け合っている。僕は伸びをする。ブラフマンも真似して、耳までも届かない前脚を精一杯のばす。
元気な時のブラフマン、その生命の温かさがここに描かれている。
何て事のない朝の場面、でもそれはかけがえのない一瞬。
タイトルにあるように、物語は最終的にはブラフマンが亡くなることでとじられる。
僕、碑文彫刻師、ホルン奏者、レース編み作家に見送られ、静かに行われる埋葬。
まるで絵画のような美しさで行われる。
いつか必ず訪れる愛しい者の死。
残された者はそれを慈しみ、やがては残された者も亡くなり、長い長い時間をかけて、そんなことは無かったかのように静かにひっそりとかき消えてしまう。私たちには到底逆らえない、大きな自然の摂理。
早朝の朝霧のようにひんやりとして静謐なイメージだけれど、朝露のようなきらめきが顔を見せ、その底に確かにある温かい愛も感じられ、何とも言えない安らかな読後感が残る不思議な物語。
心に静かに染み入って、また読み返したくなる話。
それにしても、「娘」はどうも好きになれなかった。
自己中心的で、自分に気がある僕を利用していて、物語の中の唯一の悪者に見える。
でも、ある意味人間らしかったのも彼女かもしれない。
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コメント
TBありがとうございました。
僕も「娘」が好きになれませんでした。
でも、彼女がいなければもっと印象の薄い話になったでしょうね。
素敵な物語でした。
投稿: ふくちゃん | 2007/05/29 00:03
コメントありがとうございます。
そうですね、嫌な人なんですけどいいスパイスにはなっているのですよね。
ほんと、大好きな小説です。
投稿: | 2007/05/29 01:12