2012/01/29

二人の場合 / 青山七恵

文藝2012年春号に載っていた青山七恵さんの「二人の場合」を読んだので、メモ。

肌着メーカー会社の同期、実加と未紀。
営業の成績をなかなかあげられない似た者同士の二人は仲良くなりいつも一緒に過ごすこととなる。
長く付き合った彼にふられてすっかりいじけた考え方になった実加、一方退職のタイミングで彼氏にプロポーズはされたけれどしっくりこないうえに実加が心配だった未紀は結局婚約破棄をしてしまう。
二人の関係はやがて、実加が結婚して子供を生んだり、未紀がクラリネット奏者というやりたいことを頑張っていくうちに噛み合なくなっていってしまう…という話。

既婚で子持ちの実加は自由に生きる未紀のことを煩わしい事から逃れ逃れ生きているように思い、だんだん共通の話題を失っていく。
一方未紀は、家庭も仕事もある実加の中に独り者の自分よりもずっと孤独を感じてしまう。型にはまったものたちを手に入れたことで満足してしまっている彼女から段々遠ざかるようになってしまう。
一時親しかったはずの二人。
二人はそれぞれ相手が自分とは違った生活の中で大切なものを無くしてしまったのだな、と理解する。そして二人の友情は途絶える。

全体的にとてもリアルな話だった。
独身の頃同じものを評価したり批判したりしながら長い時間を共にした二人が、環境の変化とともにすれ違っていく様とか。
既婚・結婚というわかりやすい環境の変化だけでなく、一時親しかったはずの友人同士がすれ違っていくことって実際ある。
何か大事な部分における考え方が違うなって思った時や、こちらを傷つけるようなことを無神経にされてしまった時など。
どんなにそれまで親しかった相手でも、距離をおいてしまうことはある。
私は結構そうなってしまうともうそのまま苦手意識が刷り込まれてしまって、敢えて会いたくないなって思ってしまったりするのだけれど。
人付き合いの中には、どんなに親しくなってもある種の相手への「敬意」が必須な気がする。踏み込んではいけないところには踏み込まないとか、ある一定の礼儀は保つとか、そういうもの。
多分、ある程度環境が違ってすれ違う部分があっても、その敬意がお互いにある限りは続くものなんじゃないだろうか。友人関係って。

そういえば知り合いが婚活をはじめてから「独身でつるむと独身であることに安心しちゃうから、集まりもなるべく既婚とか子持ちの友達として自分を追い込んでいる。今年中に結婚する」とか言っているのを聞いて驚いたことがある。
この人にとって友達ってカテゴライズしか出来なかったり、自分の目的の為に選択する程度の存在なんだな、なんか寂しい考え方と感じた。
逆に、そういう風に判断出来ちゃうレベルの薄い相手としか付き合っていないのかもだけど…。
私は既婚だから独身だからというカテゴリーで友人を判断したりはしない。
既婚だろうが独身だろうが、魅力的な人とはやっぱり会いたい、友人でいたい。
子供が出来てしまうと物理的に会う時間の確保が難しくなったりすることによる疎遠はどうしてもあるけれど、時間が出来た時には再び会いたい。

青山さんの小説は、いつも派手さはないものの、心理描写とかがいつも丁寧で読みやすい。
私は立場でいったら未紀に近いから、何となくそちらに肩入れして読んでしまった。
人生には一時濃く関わって、その後一生会わなくなってしまう人というのがなんと多いことだろう。

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2012/01/21

時間の泡

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限られている、時間。

その状況は永遠ではないのだと。
当たり前のそのことを頭の片隅ででも意識しているだけで、色々なことを大切にできる。
だから自分とは違う状況の人を羨ましく思うのは、
自分が今ある状況における時間をただただ無駄遣いしているような感じがしてしまう。ので。なるべくしないように心掛ける。
今を大事にして生きていないと、状況が変わった後に後悔しそうだ。

感謝はしているその人自身をも元気にするらしいよ。

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第113回文學界新人賞受賞作

先日、やっと第113回文學界新人賞受賞作の「髪魚/鈴木善徳」と「きんのじ/馳平啓樹」を読んだのでメモ。

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「髪魚」鈴木善徳

氾濫後の川で人魚を拾った男性。
人魚というと、若くて美しい女性の…と思いがちだけれど、彼が拾ったのは高齢男性の人魚。
言葉の通じない人魚をベランダのビニールプールで飼い始めるが…という話。
かわいくない魚系の生き物というと、なんとなくシーマン(懐かしい)を思い出した。
この作品の中では人魚は幻の生き物ではなく、同僚に飼ったことがある人がいたり、赤羽に人魚屋があるというのが面白いなと思った。
でも現代では人魚を飼う人自体が減ってしまっているようだ。
人魚の餌やら水槽やらが高額なせいもあるのかもしれない。
この人魚は、飼い主である主人公に夢のような不思議な幻影をみせる。
人間よりもずっとずっと長生きの人魚が見てきた光景など、映し出されたものたちに主人公は色々と考えさせられてしまう。
愚かな人間と純粋な人魚との対比、とかはありきたりな感じがして何だかなって思ったけれど、単純に変な生き物を飼う話として面白かった。
老人の人魚というのも、描写がしっかりしているからかとてもリアルだった。

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「きんのじ」馳平啓樹

経営が悪化していく自動車部品組み立て工場で働く主人公の話。
その対比として、解散寸前だった人気のないアイドルグループが売れ出していくエピソードがあったり丁寧につくられた話であった。
でも全体的に地味な話で、最後に一寸飛べるとかでもないので、あんまり好みではなかった。

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選評で吉田修一さんが候補作はどれも「不安をテーマにした作品」と言っていた。

不安な世の中で生まれる、不安な話たち。
不安は嫌だね、内臓をひゅっと掴まれると思いながらも、生きていく限りぽこぽこと生まれたりたち消えたりを繰り返していくのだろうな。
未来をみることが出来ない、でも日々何かを考えずにはいられない生物の宿命的な。
不安を退治するためには案外何かひとつを手放すだけでもよいのかもしれないとも思う。
先入観だったり、いらぬ拘りだったり。
自分の人生の枠を思い込みで決めてしまうから苦しくなるのだし、だからといって何もない荒野にぽつんとかでもそれはそれで心の中に大風が吹いてしまうし塩梅が難しい。
何ごともバランスだな。
たまにふっとバランス崩して不安に捕まって、でも体勢を立て直して不安を引きはがして前へ進む。
不安の全くない人生、それはそれで惚けてしまいそうだからある程度は覚悟して受け入れる。
光を実感する為の、ほんの少しの影。

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2012/01/09

第89回 ニューヨークADC賞入賞作品展  (アド・ミュージアム東京)

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先日、アド・ミュージアム東京でやっていた「第89回 ニューヨークADC賞入賞作品展」を観てきた。
ニューヨークADC賞は2011年には創立90周年を迎えたそう。
今回展示されているのは、2010年受賞作品。

壁に沿って受賞作品のパネルが並び、中央のディスプレイでは受賞作に関する映像が流されている。
以下、特に気になった作品たち。

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■キューブフィルム(インスタレーション)
アメリカのケーブルテレビネットワーク放送局HBOによる、屋外インスタレーション。
屋外に設置された大きな立方体の四面がスクリーンになっている。
ある物語を四つの視点から見たものがそれぞれ映し出されており、四つの視点全てを見ることではじめて全貌がわかるという面白い設定。
ちなみにストーリーは、四人の登場人物がでてきて誰が浮気しているでしょうか?というものだった。

日頃自分が見ることができるのは、必ずひとつの視点であって。
こうして四つの角度から物事をみるということ自体がとても新鮮である。
ひとつの視点における情報量なんて本当に限られているのだなという当たり前のことに気付かされる。

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■SOUR 『日々の音色』(ミュージックビデオ)
4人のクリエーターによってつくられた作品。
遠く離れた場所にいる80名以上が参加したウェブカメラによる映像を用いたミュージックビデオで、モザイクアートのようにテンポよく展開していく映像が面白くて見飽きない。
楽曲のテーマである日々の変化をミュージックビデオとしてこのように表現することも新鮮。

下記で見られます。
SOUR '日々の音色 (Hibi no neiro)'

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■山水(ポスター)
遠目には中国の美しい山水画に見えるのに、近付いてよく見ると人工建造物と汚染された街並で構成されたものだとわかるという作品。
テーマは明確だしビジュアルの完成度も高いしで、隙のなさがすごい。

そういえば私も小学生の時に環境破壊をテーマにしたポスターを描いたけれど、それってもう随分前のこと。
私たちって一体いつまで環境破壊をし続けるのでしょうね。
街の景観を守ろうとか、そういう意識ももっと浸透しないのかな。
これ以上高いビルもがちゃがちゃした電飾もいらないって思う。いつも。

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同時開催の「第54回 日本雑誌広告賞入賞作品展」も見て、かなり充実。
その他常設展も広告図書館もあって便利。
折角職場から近いのだから、もっとまめに足を運ぼう。

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新しい空気の在処

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冷えた空気に包まれて自分の輪郭をはっきりと感じながら街を歩いた。
寒い日の一人街歩きはよく冬のパリでの思い出を喚起して、一人であることを心地よく思う。
街の彩りを自分のペースで目に映して、そして空を見上げる。
そういう時の空はいつも高い。

過去の自分の意志の強さや行動力を他人のもののように羨ましく思うことが最近多かったのは、昨年の春夏あたりからめっきり弱っていたからなのだと思う。
何かを吸収しようと足を運んだり、感じたり、震わせたり、生み出したりすることには。
自分の身体と心のコンディションが深く関わるのだという当たり前のことに翻弄されていた。
壊れた自分の目に映るものの彩りは長く続かない。
光って弾けたものの欠片を掴もうと手をのばしても、うまく掴めない。

2012年になったといっても、昨年からの地続きであるのだから急に何かが変わるわけでもないのだけれど。
でも漠然と空気の流れが変わった感じはする。

海王星が魚座に帰還する今年。
私はよりもっと自分らしく自然に生きていきたい。
なるべくたくさんの時間を穏やかな気持ちで
大切なものを思いっきり大切にして
吸収したいものをどんどん吸収して
そうして生み出していけますように。

そして悲しい出来事の多かった2011年の分、
2012年が多くの人たちにとってあたたかい1年でありますように。

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2011/12/25

スノードームに覗く世界

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きらきらスノードーム。
青い目の雪だるま風の子がいる。

スノードーム、好きなんだ。
とても。
閉じられたまあるいつるんとした空間にみっちり液体が満たされて。
手の平に乗る小さな別の世界にいつでも雪が降るっていう不変の幻想感。
エッフェル塔とか東京タワーとかわかりやすい名所がはいっちゃっているようなやつとかもあれはあれでなんかいい。

たくさんの家族たちが温かい家で笑顔でいますように。
ああそしてたくさんの猫たちも幸せであるといいな。

Merry Christmas

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2011/12/19

三陸新報社「東日本大震災写真展」(銀座TSビル)

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先日、銀座TSビルでやっている三陸新報社の「東日本大震災写真展」を観てきた。

このビルでは、「東日本復興応援プロジェクト from 銀座」をやっていて、写真展以外にも物産展などもやっている。

2階の展示スペースに上がると、震災時に三陸新報社の記者たちが撮影した未公開の写真パネル36点が展示されている。
震災時の映像はテレビ等で何度も見たはずだったけれど、その写真たちを目の前にした時、感情の機微を感じる前にすぐに飽和してしまって泣きそうになってしまって、でも一人で泣きながら見るのも恥ずかしかったので何とか堪えた。

写真は、津波で破壊され尽くされた家々であったり、震災前と震災後の風景の比較であったりと、テレビで見たことのあるような場面たち。
でも目の前の写真のパネルから受ける衝撃は、流され続ける映像から受けるものよりもある意味大きかった。

映像は、見ているそばからその瞬間より未来へと進む。
過去に撮られたものであっても、その過去なりの未来へとどんどん流れて動いていってしまうから、ある一瞬における比重はそこまで重くならない。

けれど写真は。
その「一瞬」を焼き付けていて、そこからどこへへもいけないから、その惨状と映像以上に密に対話することになる。
映像を見ている時のような逃げ場が、ない。
時に呪縛的な強さがあるよな、写真って、と、つくづく感じた。

ネットとかでも震災の写真ってたくさん見られるのだろうけれど、やっぱりパネルとして目の前にあるものとは向き合い方の濃さが違う。
ぷらっと訪れた展示であったけれど、行ってよかった。

同会場では、「我孫子の5つの小学校の子供たちによる気仙沼応援絵画展」もやっている。
気仙沼の子供たちを元気にする為の絵を我孫子の小学生たちが自由に描いたらしいのだけれど、絵の内容に限らず全体的にとてもきらきらとしたオーラみたいなものがでていて、ポジティブな気持ちをきっかけにつくられるものってこんなに輝くのだなぁと感心した。
本当に絵が飾られた一帯が遠くから見ても不思議と光っているのだよな。とても眩しかった。

ものづくりにおいてもね。
常日頃、表現の末辿り着く形にばかり拘ってしまいがちだけれど。
表現に至るまでの動機の強さによって、出来上がったものが持てるエネルギーって全然変わるのだということに気付かされた気がした。

というか、きちんと動機を持ち続けていられているのかな。
私は。
どうして描きたいとかつくりたいとか思っているのだったっけ。
純粋な動機をもとにつくられたものを目の前にして、何だか色々考え込んでしまった。

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2011/11/23

硝子にうつす

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※黒ふさの瞳はつるんとグリーンの硝子玉のよう

先日の朝。

目が覚めたらぽっかりと何かが抜け落ちてしまっていて身体に力がはいらなかった。
ちょうど胸のあたりの質量という質量が消滅してしまったかのよう。

寝ている間に常日頃の不安の根っこを反芻していたのかもしれないし
嫌な夢をみたのかもしれないし
逆にいい夢から覚めてしまったのかもしれない。
手触りは何も残っていなかったのでわからないけれど、ただただ獏とした寂寥感が暗い穴のようにぼわんと広がっていた。

そういう時にふと実感する。
日頃起きて活動出来ているのは身体の中心に芯があるからなのだと。
何かが酸のようにじわじわと溶かしたり、槌のようにぱきぱきと砕いてしまうと身体が動かなくなってしまうのだということを。
空いた穴からエネルギーは漏れていってしまう。

そうなってしまった時のスイッチを。
美味しい珈琲を飲もうでも、好きな本を読もうでも、いい香りを嗅ごうでも、広い空を見に行こうでも、めいっぱいお酒を飲もうでも何でもいい。
僅かばかりであっても身体を動かすための起爆剤を。
なるべく多く用意しておきたいなと思う。
一時のどかんとした落ちは必要であっても、ずっとずっとそうしていたくはないから。

時間は死ぬまでの有限。
それまでにもっともっとたくさん上がらないといけない。
知らないことも出来ないことも得られていないことも。
想像がおっつかないくらいほんとうにたくさんあるから。

すとんと落ちても。
起き上がれなくなっても。
いつか必ず立ち上がって。
どんどん変わるものを焦るくらいの気持ちで。
目に映して音をひろって言葉という輪郭を与えて染み込ませていかないと。
何の為に生きているのだかわからなくなってしまうから。

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2011/11/19

さしだすもの

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※ケビントの中のブライス。一張羅が寒そうです。

桃を差し出されたらやさしく丁寧に受け取る。
カッターの刃を差し出されたら拒む。

選ばれているようでいて、選んでいる。

北風じゃなくて太陽になりたい。

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2011/11/03

連続の末

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友達と来年の話をした。
根拠もなにもない予想、でも本当にお互いそうなる気がするよねという話。

これから訪れる未来に勝手に虹色とか明るくて美しい色を流しておくだけでも
今現在の心持ちもぱあっと明るくなるのだから不思議。

未来のかたちは全然わからないけれど、とりあえず色は美しい。
そう決めた。

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